エンゲたちの訪問から数日が経過した、朝の早い時間。ハルスは戦略会議のために、軍団司令部に出頭した。まだ人の気配が少ないこの時間帯には、濃い花の香りが大気の隙間をくまなく満たして、着実に季節が進みつつあることを教えていた。
 休暇が明ければ再び、荒涼とした防御陣地に戻ることになる。それまでは、世界を堪能するのも悪くはないだろう。
 軍団司令部に向かう長い道のりを、ハルスは時間をかけて風を楽しみながら、ゆっくりと徒歩でたどった。
 敬礼を受けながら涼しい会議室に入ると、三名の師団長をはじめ、主だった将官たちは既に会議用のテーブルを囲んでおり、一通の報告書をめぐって議論しているところだった。開会にはまだ随分、間があるはずだが…いぶかりながら敬礼してテーブルに近づいたとき、それが何なのかやっとわかった。
 それはハルスが提出した、この会議のための作戦事案書だった。彼がもともと抱いていた構想に、リィンがほのめかした可能性−五月前夜の丘の特殊性を勘案した、戦術的な防衛事案である。ハルスは居心地の悪さを感じながら、議論の様子を離れたところから伺った。どうやら主に発言しているのは、会議の進行を命じられた若い参謀大尉のようだった。
 第八師団長ウレディクは、いつもどおりの穏やかな表情で、少々熱を帯びはじめた皆の議論を聞いていた。この将軍は参謀将校たちの間で、ひそかに”ゲライントのご隠居”と呼ばれるほど、穏やかな人柄で慕われていた。実際の戦闘にあっても、悪戯に冒険を試みて兵力を損耗することを避ける、手堅い作戦行動を好むことから、兵たちの信頼も篤い。防御型の軍人の典型だった。
「…ですが閣下、果たして彼らが圧力に屈するでしょうか。ご存知の通り高地四一五九は祭祀庁が聖地として峻別している場所になります。ヴェストファル中佐殿の構想を実現するための決断を、スゥィンダインの祭官たちが下すとは到底…」
「そうはいうがね、大尉」
 軍団参謀部に編入されて間もない、その若い大尉が懸命に自分の存在を主張しようとするのに、ウレディクは微笑みながら口を挟んだ。
「ほら、もう軍団長がやってきたのだから、議論は会議が始まってからにしたほうが良くないかね?」
 それを合図にするように、将官たちが一斉に踵を打ち合わせた。先ほど大きな声で持論を展開しようとした若い大尉も、慌てて背を伸ばして、軍服の短上衣を整えなおす。
 厳つい表情の中に灰色の瞳を鋭く光らせた軍団長が、副官の中佐だけを伴って会議室に入ってきた。頬を横断するおおきく歪つな傷跡と襟元の青い十字章は、彼が歴戦のつわものであることを語っている。
「これより戦略会議を開催する。軍団再編初の戦略会議となるが、準備はもういいのかね、大尉」
 副官の指摘に、若い大尉は耳に血を昇らせながら小声で「はい、中佐殿」と応えた。
「着席したまえ、諸君」
 軍帽を前に、将官たちが一斉に着座する。この様子を見るのが、ハルスにとって実は密かな楽しみになっていた。丸いテーブルを縁取るように、見事な円を描いて並ぶ軍帽たち。クッションもない、堅い椅子の背もたれから、やや躰を離して浅く腰掛ける、靭い意志で身を固めた軍人たち。気持ちのどこかに割り切れないものを抱えていても、やはり自分という存在のかたちがきちんと嵌るパズルは、ここだという気がするのだった。
「では、最初の議題に入ります。作戦事案十九号」
 大尉は進行表の頁をめくりながら、ハルスに目顔で合図をおくった。顔にはまだ上気の名残をとどめたままだ。
「”高地四一五九に観測拠点を構築する事の可用性に関して”、ヴェストファル中佐、ご報告をお願いいたします」
 指名を受けて、ハルスはさっと席を立ち上がった。列席した将官たちの前には、事案書の写しがそれぞれ配布されていたが、どうやら既に主だった者たちは一通り、目を通してしまっているようだ。進行役のこの若い大尉が、会議の前に持論を開陳したいために、そのように皆の雰囲気を導いたのかも知れなかったが、ある意味好都合なことだった。
 大きな戦略地図がテーブルに広げられた。”高地四一五九点”と記載された地点を指し棒で示しながら、ハルスはそこに構築する観測陣地と、法兵中隊の運用について説明を開始した。
「…なるほど。しかしね、中佐。観測拠点がそこにあって、監視が継続的に行なわれていることを彼らに知らしめることも、有効ではないかな」
 説明が一区切りしたとき、議論を始めるのを楽しむような表情を口の端に浮かべて、クアトが発言した。
「貴官の案は、どうも秘匿性に重点を置きすぎているようにおもえるな。監視していることを知らせることそのものが、一定の抑止効果を発揮するとはいえないかね?」
「必ずしもそうだろうか」
 重い口調に、クアトは声の主を見つめた。
「ウレディク閣下?」
「一般的に戦術を議論するなら、貴官のいうことは正論だよ、クリューゲル将軍。しかし、彼の戦役をみたまえ。あれはそのような常識が通用する戦さだったかね?」
「確かに」
 クアトは硬い表情で頷いた。ウレディクのコトバは聊か、断定的に過ぎるようだったが、その内容にはそれなりに重みがあった。ウレディク中将が率いた第八師団”ゲライント”は、先の戦役による一連の戦いで、二度全滅した。侵攻軍の主力をひきつける長い後退戦の、三度の戦闘で戦闘指揮官の殆どは戦死し、兵の損耗率は、師団戦力全体の九割近くにのぼったのだ。
「幻獣たちによる侵攻に対しては、純軍事的な戦術を適用すること自体が、無意味であるとは思います。しかしながら、彼らを指導して侵攻してきた者は”人間”であり、したがってその侵攻意図も、可能性の選択としての政治的意志であったことは、事実であると思推します」
「そこなのだよ」
 クアトのコトバを、ウレディクは静かにさえぎった。声は穏やかだったが、眼光には有無をいわせない迫力があり、クアトはとっさに口をつぐんだ。
「まさにその点に核心があるとは思わないかね、クリューゲル将軍。幻獣を戦力選択肢として保有する軍隊に対しては、その対抗措置としての国防軍の在り様そのものを、見直す必要がある。そうは考えないかね、諸君?」
 列席の参謀たち一人一人の胸にコトバを落とすように、ウレディクは静かに続けた。
「そもそも国防軍は、国家という形而上的な概念を守るために存在している。忠誠の宣誓が議会にではなく、国家理念そのものに捧げられているのはそのためだ。ここが、国民を害悪から守る警察組織や、防災組織とは違うところなのだ」
 それは至極当然な議論である。この師団長は今、いったい何を話そうとしているのだろうか。一瞬真意を理解できずに、しかも議論から取り残された形になって、ハルスは事案書を手にしたまま立ち尽くした。
「したがって”幻獣たちを組織だって制圧するための手段”を、われわれが元来保有していないのも、国防軍の存在理念としての道理だったのだ。国民の生命と財産を守る存在である防災組織には、幻獣たちを狩る、確固たる道義があるだろう。しかしそのような概念とは相容れないわれわれが、幻獣たちを主要な制圧目標とすることは、まさにその道義上、許されないことだったのだ…これまでは」
「話してもよろしいでしょうか、閣下」
 軍団長の許可を待って、ハルスが発言した。
「それはわが軍がこれより以降は、幻獣に対峙するための組織的な対抗手段を保持すべきということでしょうか?幻獣を中心打撃力とする勢力に備えて?」
「それはちがうな、中佐」
 ウレディクはすこし諭すようなニュアンスでいった。
「軍の内部にそのような理念を持ち込むことは、手段を目的化することになりかねない。国防軍が対峙するのは、あくまでも、政治的な相互関係にある国家の意思そのものとすべきだ」
 長い沈黙のあとで、軍団長が腕組みをし、目線をぐっとあげていった。
「君がなにをいいたいのかよくわからないな、ウレディク中将。おそらくみなも同意見だと思うがね」
「では、事案書にまとめて、提出させていただく御許可をいただきたく」
「…許可する」
 クアトは驚いてウレディクを振り向いた。その表情はまったく穏やかだったが、いつもの軽い、快活な感じはきれいにふき取られて、どこにも見当たらなかった。
「それでは、ヴェストファル中佐提出の、作戦事案十九号への補足事項として取りまとめ、次週の会議までに提出したまえ。この議論はその際に再開するものとする。いいかね、中佐」
 かちっと踵を鳴らしてハルスは背をのばした。
「はい、軍団長閣下」
「よろしい」
 軍団長は相変わらず腕組みをしたままで、緊張して立ち尽くしている大尉を促した。
「では大尉、次の議題にうつりたまえ」
 はじかれたように大尉が進行表を繰り始めるのを尻目に、ウレディクは手元に配られたハルスの事案書を、じっと凝視し続けていた。




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