リィンが僧たちをたずねたのは、もうずいぶん遅くなった時刻だった。夕刻の薄暮のおくから忍びだしてきた霧の流れは、夜の時間が進むにつれて再び、ゆるやかに引き下がり始めていた。峠の方、遠くの山では雨の予感を孕んで雲が走っている。冷たい風がときおり通って、樫の梢をざわめかせた。
 小さな窓からは、微かに橙色の灯りがもれてきている。そこはなにか秘密の洞穴を思わせるような、石造りの小舘だった。屋根に覆い被さるように月の翳を落としている樫は、樹齢はようやく百年を過ぎた頃だろうか。この地では、いろいろなものが未だ若く、あるいは幼いのだった。
 簡素なつくりの樫の扉をあけると、まるで彼女の来訪を予期していたかのように、三人の僧がテーブルの周りに着座していた。後ろ手に扉を閉めて、無言のまま彼ら一人一人の目を順に見つめる。
「アカデミーから参りました、といえば、要件は了解いただけるでしょうか。レノックスと申します」
「リィン・レノックス教授」
 高位のトルクが椅子から立ち上がって、抑制した品格のある儀礼のしぐさで迎えた。
「思ったよりも、遅かったですね。もっと早くお見えになると思っていました」
 リィンはそれには応えず、唇の形を僅かに変えて、笑ったような表情をつくった。薄い色のめがねの向こうでは、瞳はなんの感情も見せていない。
「オッピドウム通りの道具屋を、訪問されたそうですね」
 僧の挨拶はごく自然に、完全に無視されて、動作の途中で放置された。リィンは、唖然としている僧たちを眺め渡すために部屋の奥に立つと、そこから、冷たささえも感じさせない、全くの無表情を送りつけた。
「既に承知されているでしょうが、わたしは憤っております。しかも、とても激しく」
 彼女は極刑を宣告するように、”憤り”という単語を一音ずつ、はっきりと発音した。整った顔には相変わらず、どんな醜い表情も浮かんではいなかったが、十分な観察力を備えた目であれば、うなじの後れ毛が怒りのために、ちりちりと逆立っているのを捉えることが出来ただろう。
 僧たちにとっては、それどころではなかった。修行と訓練、そして厳しい修練をつんだ精神力の網は、リィンの全身から爆発的に放射されてくる、強烈な法力の気配をまともに受け止めて、破裂する寸前まで緊張させられていた。
「皆さんの信仰や信条に関しては、なにも申し上げることはありません」
 リィンは静かにめがねをはずして、両手の中でもてあそび始めた。なんの性急さもなく静かに踏み出した、細身のブーツに包まれた足元からは、陽炎のような揺らめきが立ち上がっている。
「最終的に何を目的に、何をなさろうとして居られるのかについても、全く興味はありません。ですけれど−」
 テーブルのヤドリギに目を向けて、リィンは凄まじい微笑を浮かべた。
「−このような愚劣な手段をつかって」
 彼女は法力をほんの少し、制御された形で、僧たちの聖物に向かって送り出した。
 そして、瞬く間さえあたえずに。
 あらゆる法力や魔力の類を支配下に置き、制御するはずの、強力な魔導の道具。”処女たち”によって聖別された刃物で、最も神聖な日に刈り取った樫のヤドリギが、リィンの一瞥で炎もないままに燃え尽きていった。
(おお…)
 のろいの言葉を口にすることも出来ず、床に倒れることもかなわずに、僧たちは壁に磔にされたように立ち尽くして、恐ろしい冒涜に震え上がった。
「教えていただきましょう。みなさんが、シュルツェン教授に対して、何を為さろうとしていたのかを…すぐに」
 リィンは頬のはたに凍てるような微笑をはりつかせて、細い爪先を僧達にすすめた。
「ああ、誤解がございませんように」
 そして怯えきった高位のトルクの表情にむけて、笑みをほんの少し濃くした。
「これは警告ではありません。わたくしからの、皆様への裁断とお受けとめください。このたび、すぐにお応えをいただけないという事でしたら…たいへんに不幸な結論を導くとお考えいただきます」
「…実験は、たしかに行なわれた…」
 大変な苦労のなかで、高位のトルクがようやくコトバを搾り出した。
 リィンの表情を、一瞬の驚きが掠めて通った。もう話すことができるとは、それなりにたいした精神力だ。口元が賛辞とも冷笑ともとれる形に、苺の形に小さく開いた。
「実験は行われた、ですか。なんとも、省みられるということのない方々…特にあなた、それほどの代償を支払われて、まだお分かりになりませんか」
 隻手の虚ろな右袖を見やりながら、リィンは淡々といった。
「すこし、思い出していただきましょう」
 そのコトバが終わらないうちに、失われたはずの隻手の右腕が捻り上げられ、その指爪が剥がされる。現実そのものよりも現実的な苦痛が、ありえない強烈な苦痛が、隻手の全身を引きつらせた。硬くかみ締められた隻手の歯の間から、血の泡があふれ始め、苦悶のために全身の筋肉がはげしく引き攣った。
「如何ですか?その右腕を代償にした愚かしい行為を、おもいだされましたか?」
 しかし隻手の目の奥からはいつのまにやら、何もかもを面白がるような残酷な光が溢れ、放たれはじめる。そして苦痛に耐える口許が、笑うような形に開かれた。
「…そうだな。あのときの試みでさえ、丘の力と、シュルツェン教授の”蜜の味”を得ていれば、もっと違った結果になっただろう。だが今となってはそれも…」
 隻手のそのコトバが終わらないうちに、リィンの全身から静かに、圧倒的な力の波が放出された。
「…あなたは、懲りるということをなさらない…」
 とたんに、空を掃くような音がして、風が渡った。少しひらかれた窓から、大量に枯葉が舞い込んでくる。それは先ほどまで生き生きと茂っていたはずの、樫の枯葉だった。屋外では、樫の大木が急速に枯死しはじめていて、ぼろぼろに朽ちた枝や葉を、まるで最終的な死の予告のように、小舘の屋根に降り積もらせていた。
「…わかりました。あなた方もまた、スゥィンダインの方たちと、同様ということなのですね」
 抑制した声でリィンはいったが、そのコトバはまるで、枯れ朽ちていく枝葉のように乾ききっていた。
「お好きなようになさって結構ですよ。どうぞ、背徳への道をおいきなさい。ですけれど…」
 高位のトルクが抗議するように顔面を引き攣らせたが、リィンは眉すら動かさなかった。
「もし、シュルツェン教授にこれ以上、なにかの災いが及ぶようなことがあったら…そのときは」
 彼女はめがねをかけ、髪を少し直して貌をあげた。おちついた、穏やかな表情の中で瞳だけが、破滅の余韻をのこしていた。
「そのときは皆さん、ご自分の信仰の限りを尽くして、あなたがた自身の神に、お祈りください」
「…あなたは神に挑戦なさるのか…」
「わたしは挑戦すべき神をもっておりません…もちろん、ご理解を頂こうとは思いませんけれども」
 底の知れない笑みとともにそういい捨てると、冷たい風を戸口から招いて、リィンは夜の中に躰を滑り込ませていった。小舘に被さる巨大な枯れ木が朽ち落ちていく、長い断末魔。その無言の悲鳴に混ざって、馬車が轍を刻む音はすぐに聞こえなくなる。それと共に僧たちを縛めていた法力も、あっさりと消滅した。彼らは磔られていた石壁から、古い紙片が縮れて剥がれ落ちるように床に倒れこみ、へたり込んだ。
「…なんと、恐ろしい女性だ…」
 ずいぶん時間が経った後、僧の一人がやっと口をひらいた。
「中途半端な信仰心より、わたしには彼女の態度がよほど好ましく思えましたがね」
 薄い目は、首とトルクの間に指を入れて、苦しそうに息をついた。
「それにしても、なんという力でしょう」
「”処女たち”が全員で対抗しても、あの力を制御することは難しいだろうな」
 左手だけで不自由に躰を起こしながら、隻手はどことなく面白がるように、眉をあげた。
「しかも、とても美しい。破滅の香りがする…」
 開け放たれた扉の方に顔を向けると、湿り気を帯びたが風が迷い込んで、燃え尽きたヤドリギの白い残骸を小屋の外へ持ち去っていった。




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