まだ汗にしっとり濡れてゆるやかに上下しているマーシェンカの胸に手を置いたまま、ハルスは、職業病ともいえる妄想に取り込まれていた。
 乳首からはじまる、おっぱいのなだらかなカーブをくだり、おなかの野を通っていく。下腹部の陵裾のひっそりした柔毛の林に行き当たるとそこは既に異界との境界、美神の丘だ。
(たしかに、ここに新しい観測点を構築するのは有効だが、しかし…)
 意識しないまま、指でくりくりと乳首の先を弄ぶうちに、そこがあらためて硬く勃起してきている事にさえ、気づいていない。
 小規模な掩蔽壕を構築すれば、彼戦力に発見される確率はきわめて低いだろう。超越者自身が、かの高みから見下ろさない限りは。
(くうぅん)
 ふと感じた悩ましい息づかいで、ハルスは現実に連れ戻された。マーシェンカとまともに目があう。潤んだ、いまにも泣き出しそうな瞳が指先を…乳首の周辺を虚しく、もどかしくなぞる指先の動きを、切なそうに見つめていた。
「旦那さまぁ」 
 吐息と共に、ちょっとかすれた声がもれる。
「そうか」ハルスはおおきな微笑をうかべた。
「おまえが見ていたか、マーシェンカ」
 自分の腰ほどの太さもある上腕のなかに抱かれて、マーシェンカは身動きをとることも出来ないままにうっとりと吐息をついた。ハルスの厚い胸に押し付けられて、おっぱいが柔らかくかたちを変える。内腿の間には、臍下までくまなく鍛えられた、強靭で引き締まった腰と、再び熱く脈動しはじめた逞しいハルス自身…。マーシェンカは膝裏を引きよせ、絡ませるように、ハルスの全身を迎え入れた。瑪瑙の鱗をまとった手首が撓やかにくねって、指先はハルスの背を弄り、欲動の気配をさぐった。
「ねえ、旦那様」
 少しもどかしい沈黙のあと、マーシェンカはハルスの腕の中で、彼の目の奥を覗き込みながらいった。
「今日いらしたお客様−あなたさまそっくりの目をしておられましたね」
「どちらの教授殿かね?厳しいほうか、それとも」
「もう一人のお客様、シュルツェン教授のほうです。旦那様に、とても似ている…。あなたさまと同じ、冬のシリウスのような瞳…ああっ」
 呟くようにいうマーシェンカの乱れた髪を抱いて、ハルスは優しくなでつけた。快感の余韻を残した熱い肌はとても敏感になっていて、ハルスが触れるたびに、正直に反応した。
「…今日のあなたさまは、なんだかとても怖かったです」
「怖い?そうだったかな」
 答えは簡単に予想できたが、マーシェンカの口から小言を引き出すかのように、彼は反駁した。
「どうした。なぜ、そんなことを?」
「悲しんでおられましたよ、シュルツェン教授。あんなに怖い顔をなされることは、なかったのに…」
「そうだな。そうかもしれん」
 ハルスはそういって、からかうような含み笑いをもらした。
「お前が”人間”に興味を持つとは、珍しいことだな」
「そんな、違います!」
 思いもよらなかったコトバに驚いて、マーシェンカはハルスの胸の中で躰をもがいた。
「あなたさま以外の”人間”になど…」
 そのコトバが終わらないうちに、ハルスはマーシェンカの銀の髪を、腕のうちにつよく抱き寄せた。
「ああ…」
(ああ…あなたさまがこれからも背負われるでしょう因業を、わたしも分かち合いましょう。あなたさまが地獄めぐりをなさるのなら、わたしも共にまいりましょう。ですから、旦那様…わたしを…)
 しかしマーシェンカはそんなことを、声にはださなかった。
「…雨が、上がったようです…」
 いろいろな想いをこめて、彼女はハルスの腕の中で、しっかりと自分を抱きかかえる褥の中で、そう呟いた。


 激しい雨のあとの空気は水龍の櫛で梳いたように洗われて、どこからかほんのりとあまやかな香りをはこんでくる。夜の中にたっぷりとした薄墨をゆうるりと横たえて、真夜中のシュルベイ川は深い紫に沈んでいた。川縁の若木の香りを甘く豊かに含んだ流れは、月の下で滑らかにゆったりと水面をくねらせる。その様子は官能的で、褥の中で転寝をする女性の肌のように艶めかしく、イカル・ドラギオの深い森に沈む研究所で、まだ拗ねているだろう弟子のことを思い出させた。モレッティは口の端を微かにもちあげて、この川水が流れていく果てに目を細めた。
 やがてぼんやりと見つめる水面の、月光に映えながら盛り上がった丘陵に親しいものの気配を認めて、モレッティは水の流れにかがみこんだ。水草が緩やかに靡くミオのなかに、僅かに緩んだ頬の影が映りこんでいる。モレッティは少しの間、土に膝をついて会話の初緒をまったが、やがて根負けして頸をふった。気高く賢い水の精、メリュジーナ。あまたのウンディーネたちの尊敬をあつめるこの高位の精霊が、自分から話しかけてくるはずはなかった。
「あなたがみずから、いったいこんなところまで、どうしたのかね?」
(久しいですね、セグラーティ卿)
 水の娘はごく自然に、そして冷ややかな口調で応じた。
 モレッティはもう一度、困り果てたといった風情で肩をすくめた。彼女が自分を”セグラーティ卿”と呼ぶときには、必ず御機嫌がななめなのだ。
(ずいぶんとこの地が気に入りの様子。ご自分の領地に住まうものどものことなど、もう忘れてしまいましたか?)
 そのコトバと共に、川面の流れの中に小さな渦が生じた。それは流れの中でも形を崩さずに、じっと同じところに留まって、モレッティを鋭く値踏みしているようだった。どうやら御機嫌は、険悪というほどわるくはなさそうだ。
「そのように怒るな。そうだな、いささか逗留も長くなりすぎたのはみとめるよ。ここのゲストハウスは、居心地が良くてね」
 モレッティは岸辺のソニアを指の間に摘んで、一瞬香ったあとで水面の渦にそっとうかべた。
「セグラーティの湖畔では、いまごろはヒマワリの盛りなのだろうね」
(〜まるで一面の太陽のように〜)
 渦は花を内にとりこみながら、歌うようにいった。モレッティは感嘆に目を細めてうなずいた。水の娘たちのコトバはみな、いつでも実に美しく、音楽的だ。まるで堂々としたコラールのように聴こえるときもあれば、アリアの小品のように響くときもある。少し機嫌を直し始めているらしい今の歌声は、恋人をわざと拒絶する甘く苦いアリアのようだった。
「…ではその陽が翳らぬうちに、俺も戻るとしようか」
(それは結構なことです。ウンディーネたちも少しは静かになることでしょう)
 そうか。ウンディーネたち。
 セグラーティ湖を巡る季節の折々を華やかに飾る水の精たち。ときどき、湖のほとりにやってくる人間達を、鏡が見返すように水の中から覗き返して驚かすことはあるものの、総じて穏やかで、愛しくそして儚いものたちだ。
(セグラーティの湖畔ほどに美しい場所は、ほかにありますまい。いまのコトバどおり、早く戻ってくるのですね)
「そうだな。この地でいえば…そう、そういえば五月前夜の丘はどうだったかね?」
(”五月前夜の丘”?)
「タツバ川からシュルベイを遡ってきたのなら、遠くから見えたはずだよ。夏のセグラーティ湖には及ばないだろうが、この季節には特に、風の美しい丘だ」
(ああ…それなら)
 水の娘は水面に不安そうな漣を立てた。
(この地のウンディーネたちが申していました。”ヴァルネメトン”ですね、勿論正確には)
「もういちど、ねがえるかね?」
 こんどはモレッティが聞き返す番だった。
(〜タゥレ=ヴァルネメトン〜)
 水の娘の唄うようなコトバを、モレッティは確かめるように、自分の口の中で繰り返して呟いた。、
(この地のいにしえ言葉で、”三人の乙女の丘”だとか…)
 乙女の丘?そんな呼び名で語られていたとは、これまで聞いたことがなかった。それにしても、三人の乙女とは…。
(たいへん古い呼び名だとか。二十年ほど前のいっときに、再びその名で呼ばれる事があったようですが、なんでもある年に不吉な祀りがあって、じきに廃れてしまったとか。見映え程に麗しい場所ではないようにおもえますね)
「…ナマエには、何にでも謂れがある…それが麗しいものであっても、厭わしいものであってもね。謂れをもたない存在の、なんと儚いことだろうな」
 モレッティはシュルベイの流れに、そして水の精のコトバに背中をむけると、本当に小さな声でいった。
「三人の乙女の丘、か。耳には麗しいナマエだが、さて…」
 そう呟くモレッティの広く硬い背中で、シュルベイの流れが小さな、涼しい音を立てて逆巻きはじめる。そして、精霊の気配がすこし遠ざかり始めるのがわかった。
「なんだ−もう戻るのかね?」
(おわかりでしょう。この地の水は、わたくしには硬すぎます。あなたの無事を確認できたことで、今宵は満足といたしましょう)
 振り返ったモレッティの目の下で、今まで流れに逆らうように形をたもっていた川面のかすかな渦は、月光を反射して微妙に揺らいだ。
(でも、もうしておきますよ)
 渦は禍を巻き込むように狂おしく身もだえ、ミオの中にモレッティの翳をとりこんだ。
(くれぐれも、危うい場所には近づかぬように…もしあなたに何か災いがあれば、この郁にも必ず、相応の報いをもたらしましょう)
「そのように恐ろしいことをいうんじゃない、美しい水の精よ」
(…みな、あなたの帰りを待っていますよ、リッカルド)
 モレッティのコトバをそこに取り残したまま、川面の息遣いはそっけなく、あっというまに遠くなっていく。
(〜セグラーティ湖の陽がすべて沈む前に、お戻りなさい〜)
 小さく、消えていくアリアを追うようにゲストハウスへの道を辿りはじめると、川べりに崩れ果てた橋の橋脚が、その残骸が視界に入ってきた。先の戦役の折に、侵攻軍の渡河を恐れて落とされた、三基の橋たち。いまだに醜い骸をさらすその不吉な符号に、モレッティは背中を奔る悪寒をどうしても抑えることができなかった。




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