窓の面を激しくうつ雨はまるで流れるようで、風は高く低く笛のような音を立てつづけている。寝衣とガウンの襟元を几帳面に整えなおすと、リィンは廊下の暗がりから食堂にむけて白い笑顔を軽く伏せた。
「…お部屋の窓からこちらに明かりが見えましたので、もしかしてまだ起きていらっしゃるかと…ご無礼を致しました。お仕事中でしたか?」
「宜しいですよ−お気になさらずに」
 ハルスは防御陣地からとどいた野戦報告書を手元に閉じ、耳を打つ嵐に被せるようにいった。
「眠れませんか?もちろんこの騒ぎでは、むりもないことですが」
「そうですね、まるで怒り猛ける龍が空を往くような」
「なるほど−まさに幻獣学者らしい」
 頷きながら報告書をサイドテーブルに伏せて、ハルスは軽い身のこなしで席をたった。
「いまちょうど一息、入れようと考えていたところです。いかがですか?ご一緒に」
 食堂の戸口で足を止めて礼を述べ、リィンは招き入れる中佐の高い背のむこう、窓の外の喧騒に目をやった。風雨は宵のくちと比べると、ほんの僅かにおさまり始めているようだった。それでも窓の外には、木々の枝たちが風のなかに激しくもてあそばれ、黒い影を躍らせているのがみえた。夜の奥で、風を突いて馬車が走り去るような、乾いた微かな音が聞こえる。参謀通りの清閑な佇まいも、今夜は随分とにぎやかなようだ。
 戸棚からグラスを取り出して振り返ると、リィンはまだ扉の前で立ったままだった。
「これでは、お庭の花がみんな散ってしまいますね。マーシェンカさんが残念がられるでしょう」
 カチンと音を立てる時計の音。日付が変わったことを示す長針の影が、白い文字盤の上を滑っていった。
「…とても、お優しい方ですから」
 リィンの呟きを合図にするように、切子の細工を施したグラスの中へと、琥珀の飲み物が注がれていく。豊かな表情が、冷たい硝子の器を満たしていった。
「彼女に、そういってやってください。きっと喜ぶでしょう」
 そういってハルスは、マーシェンカの瞳と同じ、甘い憂いを秘めた飲み物を差し出した。時折の稲妻に照らし出されて、昼間と同じように家紋を縫い取ったタペストリーが浮かんでみえる。ランプの仄かに赤みかかった明かりと、そこかしこに潜む薄暗がりの中では、陽の光の下とはちがって、それは重く暗い印象を与えてくる。リィンは窓の外の深い闇に眼差しをむけながら、静かにいった。
「お昼間にうかがったお話は、たいへんに興味深いものでした。ですけれど…」
 リィンはグラスの縁をそっと指でなぞった。
「あのいくさでは、きわめて大きな苦痛を、ファル=カルクの市民は黙って受けとめました。次にこのような試練に耐える力は、もうこの町には残されていないでしょう。これは、専門家のあなたに申し上げる事ではありませんけれども…」
 そういいながら、リィンは唇をそっと指先で拭った。
「ところで、中佐は士官学校では、戦略論に特に秀でておられたそうですね」
「出来の良くない候補生でしたよ」
「ご謙遜を」
 テーブルの上で指を組替えながら、リィンはランプの灯りを透かして微笑んだ。
「中佐、あなたは−あのように悲惨な戦いを繰り返さないために、これからこの国にできることは、どんな事だとお考えですか?」
 リィンの瞳の輝きは、ほんの少し明るさを増した。その光の危うさに喉元を突かれたような気がして、ハルスはほんの一瞬言葉をなくした。
 この女性を相手に、戦略を論じるつもりは毛頭なかった。それに結論からいえば、この国は地政学的には侵略に対してきわめて脆弱で、”戦いを繰り返さない”ためには、軍事による交渉それ自体に頼るべきではないのは自明だったのだが…。それでも結局ハルスは、軍人として返答することを選んだ。
「我が国軍の戦力基盤では、全ての国境に対して強力な撃破構想を築く事はできないことは、先の戦役でも詳らかになったところです」
 生真面目なハルスの返答に、リィンは無言の淡い微笑で応じた。
「そしてまた、侵攻軍の戦力を国内で磨り潰すにも、わが国の縦深はあまりに浅すぎます。国土を消費しつつ、彼戦力に出血を強いる時間を稼ぐ事も、出来ないという事なのです」
「”だからこそ国境近くの深い森と、その手前に流れるシュルベイ川が、大規模な兵力の浸透に対しての阻止線として有効である”。国防軍が戦前に喧伝していた、軍事ドクトリンがこれでしたね?」
「…手厳しいですが、その通りです」
 ハルスは冗談めかしていったが、その通り非常に手厳しい指摘だった。ドラギオン帝国との国境付近には、ビスクロン山系とともに針葉樹の深く暗い森が広がっていて、大規模な侵攻を企図した打撃力が、短時間で浸透してくるのは困難とされていた。しかも森のすぐ手前にはシュルベイ川の広い流れが横たわっており、渡河のためにそこで停滞した敵戦力をまさに”水際”で殲滅する事が、ハイランディ共和国の国防大綱として長く採用されつづけてきたのだ。
 その幻想を徹底的に打ち壊したのが、王冠戦役の一連の戦いだった。明確な作戦意図によって統制された幻獣たちの力は圧倒的で、国境の森を一気に突破してきた巨大な侵攻戦力は、その勢いのままでシュルベイ川を押し渡り、共和国の喉を掻き切る寸前まで攻め寄せてきたのだ。
 この戦いでは、多くの戦訓が得られた。山塊のみならず、森林や河川という自然の障害物が、幻獣たちを中心打撃力とした侵略に対して、必ずしも有効ではない事が証明されたのだ。それだけではない、防備として働いてくれるはずの森林がかえって、敵の行動を秘匿する結果となったのは、完全な誤算だった。ハルスは国境から”肉引き峠”に後退する苦しい消耗戦を思い起こして、気づかれないようにそっと眉をひそめた。戦役の終結から二年が経った今でも、あの凄惨な光景が彼のココロを離れたことは、なかった。このように雨が降る夜には、特に…。
「中佐。昨日あなたは、軍人は戦争を恐れるものだとおっしゃいました」
 リィンは掌のなかでグラスを揺らしながら、静かに続けた。
「戦争を抑止しつづける事が、軍隊の望ましい在り様ということですね?」
「その通りです。昨今の政治情勢下では、遠い目標ですが」
「たとえば法力を使用して、絶えず国境線を監視しつづけることは可能だと思いますが−それは戦いを未然に防ぐことになりませんか?」
「もちろん我が大隊も、優秀な法術師たちによる戦闘中隊を有しています。ですが…」
 そういうとハルスは一瞬、口をつぐんだ。たしかに彼の大隊には王冠戦役以前から、法術師たちで編成された戦闘一個中隊が、試験的に配属されていた。しかし法術は効果の顕れが微妙で、安定した確実な打撃力を切望する前線においては、常に二次的な存在だったのだ。それゆえに戦闘力として顧慮される機会は少なかったのだが、いつでも有効な、安定した強力な法力があれば、状況は今とはずいぶん違うものになるだろう。残念なことだった。
 そんなハルスの心情に気づいたのか、リィンは満足そうに目を細めて、琥珀の液体で唇を湿らせた。
「だれでも法力の効果を安定して発揮することができる、選ばれた場所がただひとつ、ありますよ。かつては”三人の乙女の丘”と呼ばれていましたが」
「それは…?」
 ハルスの問いに、リィンは目顔でこたえた。
「いまでは、五月前夜の丘で通っているようですね。もっともあなたがた軍隊の皆様には、もっと別の呼び名があるのでしょうけれど」
 それでも、祭祀庁では今でもそこを、三人の乙女の丘と呼んでいた。まるで、恐ろしくそして美しい、過去からの残照に絡めとられてしまったかのように…。リィンの瞳がまたすこし、妖しく輝き始める。彼女は唇の傍までもっていったグラスをそこで静止させて、単語を区切るようにいった。 
「五月前夜の丘にありあまる霊力。それは誰しも周知のはずです。ですのに軍隊があの丘を接収し、活用なさらないのは、やはりあの地の厭わしい呪いのため…ですか?」
「とんでもないことですね」
 ハルスは少し気分を害したような表情を作って、リィンの挑発に応えた。
「もとより、あの丘に観測陣地を構築することなど、祭祀庁が応諾しないでしょう。彼らにとっては、聖別された場所にほかならないわけですからね」
「−中佐−」
 今度こそめがねの向こうに、明るい破滅の輝きを燈して、リィンはにっこりと笑った。
「何事にも、例外というものはありますよ。とても幸いなことに…」


 リィンが会釈して部屋のほうに戻っていくのを見送って、ハルスはランプの明かりを消した。暗闇の中に廊下を巡って寝室に入ると、窓には厚いカーテンがひかれて灯りも燈されておらず、部屋は冷ややかに森と静まり返っていた。
「…マーシェンカ?」
 そう呼んでみるが、返事はない。かわりに暗がりのなかで、誰かが躊躇うように躰を捩じらせるのが判った。
「あの方とお会いになられました、旦那様?…レノックス教授と」
「つい先ほどまで、すこし話していたが」
 マーシェンカの声に紛れ込んだ不安そうな響きに気づいて、ハルスは努めて安心させるように小声でいった。
「それで機嫌がわるいのか?ただ、話をしただけだ。しかも趣きのかけらもない、戦争の話だ。つまらない会話だよ」
「…ちがいます…なにかおっしゃっていませんでしたか?その、わたしのことで、何か…」
 そういって黙り込んだマーシェンカの肩にふれて、ハルスは、はっとした。彼女の白い肩は小刻みに震えていて、内心の怯えが直接つたわってくるようだった。
 こんなに何かを恐れているマーシェンカを、みたことがなかった。ハルスは彼女の銀の髪を優しく撫でながら、ほんのすこし力をいれて、その細い躰をゆっくりと抱き寄せた。
「そうだな。レノックス教授は、お前のことをたいへん優しい、といっていた。当然の評価だがね」
「ああ、そうではなくて、もっとほかの事を…たとえば、あの、わたしが…」
「昼間の挑発のことかね?」
 マーシェンカは頷くように、小さく頸を竦ませた。
「そう気にするな。彼女も、もちろん冗談だといっていただろう」
(いいえ…)
 マーシェンカは自分の瑪瑙の腕輪にそっと唇で触れた。
「あのかたたちは、判っておいででした」
「…マーシェンカ?」
「完全に、判っておいででした」
 そういって彼女は、シーツの下で小さな子供のように、きゅぅっと躰を縮めた。




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