「徒然の慰みに、カードの占いなど如何でしょう…いかがですか、シュルツェン教授?」
 嵐が吼える声も幽かなささやきにしか聞こえない来客用の静かな寝室で、マーシェンカは使い込まれた大ぶりのカードを一組取り出すと、手際よく小さなテーブルに広げ始める。その声でエンゲは、甘い記憶の織物の中から、解れだした時間の流れに推し戻された。寝衣の上には、黒いガウン。ついさっきまでの奔放な記憶を覆い隠すように、エンゲは薄手のガウンの裾を、もぞもぞと閉じ合わせた。
 蝋燭をいくつかともした灯りの下には、マーシェンカの白い顔が朧に浮かんで、緩い微笑を浮かべている。
「まずはどなたから?」
 彼女はリィンをみて、それからエンゲに目を移した。二人は一瞬、顔を見合わせたが、リィンが先に口を開いた。
「では、シュルツェン教授から」
「ああ。ずるいです、学部長」
 マーシェンカはにっこりと笑うと−細く長い蝋燭の光が揺れる中で、とても妖艶に−エンゲに身体ごと向き直った。
「ではあなたから。シュルツェン教授」
 マーシェンカに促されて、エンゲはカードの束を受け取って、念入りにテーブルの上で掻き混ぜはじめた。
「古来より占いは懸想見に始まり、終わるといいますゆえ…」
 マーシェンカは芝居がかった口上で、一枚一枚、カードをエンゲの前で広げていった。二輪戦車や恋人たち、そしていくつかの杯が描かれた、不思議な色調のカードがテーブル上にタブローのように織り出されていく。
「ながいあいだわかれていた恋人との、深い…とても深い交合の暗示。そしてたぶんその為の、激しい諍いの仄めかし」
 いきなり示された、明るいとはいい難い啓示に、エンゲの顔が曇った。その目の前には更に幾枚かのカードが追加されていく。高い建物を描いたものや、おかしな格好の男性を描いたものなど…どれもあまり、気持ちのいい印象ではなかった。
「虹が裂ける朝に恋人とふたり、探していた場所は見つかるでしょうけれど、そのときのあなたは、今のままのあなたではないかも…」
 何の事やらわからない表情のエンゲに、マーシェンカは柔らかく笑ってつづけた。
「などという思わせぶりな物言いも、占い師のお約束。一夜の座興とおみすごしを」
 マーシェンカは、優雅にソファから腰を浮かせて、お辞儀の振りをしてみせる。エンゲは礼儀正しく目を伏せたが、先ほどの気味の悪い暗示を引きずっているのか、表情はどこか硬く、顔色は蒼白だった。目の奥のほうがくらくらと回るのを感じて、彼女は誰にも気づかれないようにと願いながら、息を整えようとつとめた。
「大丈夫ですか?シュルツェン教授」
 冷たい指先が手に触れるのを感じて、エンゲは少しうなずいて生唾を飲み込んだ。
「ああ…申し訳ありません、お客様…」
 マーシェンカはそういうと、あわてて水差しからコップに氷水を注いだ。コップを受け取り、口許に運んでやりながら、リィンは小さな声でもう一度、大丈夫?と尋ねた。
「すみません…最近少し、忙しくて…あまり、よく眠れてもいなかったので」
 冷たい水を口にして少し気分が良くなったのか、エンゲは決まりが悪そうに詫びた。
「せっかくのおもてなしを…本当にすみません」
「ああ…お気になさらないで。わたしがおかしなことを口にしたために。どうか、お許しください」
 エンゲは苦しそうな表情で、すみません、大丈夫です、とつぶやいた。
「謝ってばかりですね、シュルツェン教授…」
 リィンは氷のように輝く瞳に不思議な暖かさをまとわせて、まなざしでエンゲを包みこんだ。
「彼女を寝台に運ぶのを、手伝っていただけますか?」
 はい、と頷いたマーシェンカの手を借りてエンゲを寝台に運びながら、リィンは燻っていた怒りをもう一度、否応なしに掻き立てられていた。相変わらず、彼女の躰からは汚怪な霊気の名残がかすかに立ち上っている。こんなにも長い時間がたっても完全に消え去らないとは、きっとそれなりの法力を持った人間が接触してきたのだ。可能性の網はいまや、聖職者たちにまで絞られてきている。それにしても、その力のなんという下劣さ!しかもそれは、エンゲの体調にいまだに、好ましくない影響を与え続けているのだろう。自分の手でこの腐れた霊気を排除することも考えたリィンだったが、強引な処置がエンゲに及ぼすかもしれない影響を考えると恐ろしくて、どうしても決断を下せないのだ。
 自分のちからが、破滅しかもたらさないことは、十分に承知している。強すぎる法力のために、花に触れれば瞬きのうちに散らせてしまい、男と目合って子供を産むことも出来ない。彼女の躰は、自分以外の何者も一切を受け入れない、強力な”禁止”の力をあらゆる外部に向かって放出しているようだった。その力をエンゲに対して、どうして行使できるだろう…。
 閉じられたエンゲの瞼と唇は青白く、それと同じ色の冷たく強い怒りが、リィンの躰にあらためて燃え立ち始める。
 寝台の上でそっとシーツをかけるリィンを、マーシェンカは一歩退いた姿勢で、じっとみつめている。なんと声をかけていいのかわからない様子の彼女に、リィンは落ち着いた声で丁寧に礼をいった。
「ありがとうございます、マーシェンカさん…お手間を取らせましたね」
「とんでもございません……!」
 そういいながらマーシェンカは、エプロンとワンピースの裾を、絞り上げるようにおさえた。緊張のせいだろうか、尻尾のさきがワンピースを持ち上げてぴくぴくっとくねったような気がしたのだが、それは錯覚だったのかもしれない…。
「わたしの方こそ、本当に大変なことを…お詫びいたします」
 マーシェンカの濃い琥珀の瞳は赤く充血して、逆に血を失った目尻からは、堪えきれなかった涙がいまにも零れるかのようにみえる。エプロンの端を握った手が、小さく震えていた。リィンは彼女のその姿をみて、怒りに醜く歪んでいるかもしれない自分の顔に、慌てて掌をやった。
「それで…ご様子は、如何でしょうか」
 寝台から三歩ほどのところでマーシェンカは、リィンが毛布とシーツを整える手元を見つめている。まるで結界をみるようにマーシェンカが見つめる、どうしようもない間隙を感じながら、そのあとリィンの口から出たコトバは、自分でも信じられないほど、予測も計算もしていないものだった。
「”人間”がすべて、あなたのようであったら、どんなによかったでしょうね…」
 そして彼女は両掌で、マーシェンカの瑪瑙の手首をそっと握った。暖かく、しなやかな感触。実際に触れるまではきっと冷ややかなものだろうと思っていたが、それは予想とはまったく正反対の、優しい手触りだった。
 客間の窓の向こう、薔薇やさんざしが風の中に美しく弄ばれる気配の向こうで、ほんの微かに灯りが瞬いてみえる。ヴェストファル家の紋章のように俯いているこの幻獣をいま、理不尽なほどとても近く感じている自分に、リィンはすこし戸惑っていた。




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