聴講生達の名簿を整理するのは、いつも一番後回しにしてしまう、嫌な仕事のひとつだった。毎回のことではあったが、とにかく聴講にやってくる人の顔と名前を、殆ど憶えられないのだ。エンゲはちょっと憂鬱な溜息をつくと、事務局から回されてきた名簿を、端から読みなおしはじめた。明日も、先週から引き続いて若い戦士や狩人達を対象にした講義が組まれている。テーマはこれまた、自分が最も苦手とする学術分野だ…。
 読もうとすればするほど、単なる模様にしか見えてこない、自分でも怖いほどに意味のないナマエの羅列。エンゲは頸を振ると、開いたままの名簿を散らかりきった机の上にもどして、講義のための大判なノートを膝の上に広げた。主題は数理生態学。幻獣たちの棲息分布やニッチについて、解析的に説明しようとする学問で、それは最近になってにわかに、とくに狩人達のあいだに新しい波のような広がりをみせていた。
 彼女はノートを片手に、もう何度目になるだろうか、講義の出だしのところをさらいはじめた。
「それでは皆さん、今日は限定された地域での幻獣の個体数と、種類の変化について議論してみましょう。幻獣の全体密度と局所密度についてはまだまだ未知の領域が多いのですが、できれば議論を深めていきたいと思います…」
 でもやっぱり言葉のお仕舞いのほうは、なんだか頼りなげに、少し小声になってしまう。きっと講堂を犇くように埋めるのだろう、まだ経験も浅い感じの、緊張した表情の聴講生達。しかし、聴講にやってくる狩人や戦士達のほうが、幻獣たちの分布拡大や、ある意味での共存、そして消滅といった稀有な事象にも、リアルな体験として、きっと深く通じているに違いない。彼らに講義する資格が自分にあるのかどうかと誰かに問われれば、すぐに頸を縦に振ることは出来ないだろう。
 重い溜息をついて肩をおとしたとき、突然すぐ脇で、小さく拍手する高い音が聞こえた。驚いて身をすくませると、明るい声が拍手に追いついてきた。
「かっこいい。思ったとおりやっぱり、すごくかっこいい」
 いつの間に入ってきたのか、そこでは軽快な装いの小柄な狩人が、濃い緑の瞳を見開いていた。黒い髪が複雑なシニヨンに纏められて、虹色の羽飾りがついた、狩人の帽子の中に行儀よくおさまっている。身軽そうに引き締まったしなやかな躰は少年を思わせたが、ふっくらした口許や、暗緑色のシャツと、ぴったりしたパンツの柔らかな曲線は、女性の狩人であることを全面的に主張していた。
「ねぇ、つづきは?もう、やめちゃうの?」
 エンゲは耳に血がのぼってくるのを感じながら、とつぜん濫入してきた狩人の甘そうな唇に、思わず目を奪われていた。すこしの沈黙のあと、口許が魔法のようにひらいてそこから紡ぎだされたコトバは、予想外のものだった。
「なんか、すごいちらかってるよ。これで、どこになにがあるのか、わかるの?」
 狩人は資料が山積みになっている机の上をみて、大きな目をさらに、まんまるに見開いた。自分では特に、制御不可能なほど散らかっているという意識はなかったので、気にしていなかったのだが…指摘されれば、その通りなのかもしれない。エンゲはさらに顔が火照るのを感じながら、とっさに「猫がいるのよ」と応えていた。
「とてもやんちゃな猫がいるの。そこの窓から入ってきて、机の上を遊び場にしてて、それで…」
 黙ったまま狩人は背の高い机を乗り越えて、示された窓の外を、ひょいっと覗いた。切り立った崖のように、陽除けや手摺のひとつもない、建物の三階。凝った飾りのついたステッキを手に、金糸銀糸の刺繍を纏った大きな外套を偉そうに翻した壮年の男女が、石畳にちいさくみえた。
「…ここをのぼってくるんだ」
 彼女は窓からくるっと振り返って、ちらかった机の上からにっこりと輝くようにわらった。そのとき、狩人の腰で小刀がカチン、と音を立てるのが、まるで意味のあるコトバのようにはっきりと聞こえた。革のサックと木を削りだした柄しか見えないのに、隠れたところではしっかり、刃物が鋼鉄の鈍い輝きを放っているのだろう。細く締まった腰の上で踊る小刀は、なんだか独立した生き物のようだった。
「ね、せんせ」
「…先生…?」
 いきなりそう呼ばれて、エンゲは慌てて躰をすくませた。狩人のおおきな緑の瞳。とても深い海の底から見上げているようなまなざしは、不安とともに理不尽で不思議な安心感があって、エンゲはピン留めされたように、瞳の中で固まってしまった。
「そ。わたしにいろいろ教えてくれるんだから。せんせ、なんでしょ?」
「そうね、そうかも。えっと…」
 頭の中の名簿に懸命に名前を探そうとするエンゲに、そのちいさな狩人は真っ直ぐに視線を浴びせてくる。
「ごめんなさい…あの、ナマエを憶えるのが得意じゃなくて」
 ちょっと俯き加減に、もごもごといいわけするエンゲを机の上から見上げると、狩人はぷくっと頬を膨らませた。
「わたしはすぐに憶えたのに。エンゲリカ。そうでしょう?エンゲリカ・シュルツェン博士」
 ひどく悲しそうに俯いてしまったエンゲに、狩人は慌てて机から飛び降りると、きゅっと上着の袖をつかんだ。
「ああ、うそ!ごめん、ごめんね。いままでずっと、わたしだけが見てたの。せんせのこと」
 狩人はまるで、殺人を告白するような切羽詰った表情でいった。
「せんせの声を近くでききたくて、探して、やっとアカデミーまできたんだけど。事務局ってひとが、もう聴講生の募集、締め切りだって、それで…」
 一気にまくしたてるその表情には、まるでエンゲの喉元を締め上げるように緊迫したものがあった。
「…それで…ここにきちゃった」
 勝手にはいってごめんなさいと、狩人は帽子の羽飾りを揺らして、なんども謝った。
「もう絶対、こんなことしないから」
 エンゲは狩人の小さな手をそっとほどくと、彼女の濫入でよりいっそう混乱の度合いをました机から、受講者の名簿を引っ張り出した。
「ここにナマエが載ってれば大丈夫だから−もし明日あなたが、わたしの講義に来てくれるんだったら」
「よかった。ここにかいたら、いいんだね?」
 狩人はまったく躊躇なく帽子から羽飾りを引き抜くと、机の上のインク壷に一瞬浸して、開かれた名簿の一番下の余白に、すばやくナマエを書き付けた。
 それは迸る鮮血のような赤い文字で、アカリ、とだけ記されていた。
「それで、その…本当は、いつどこで、あなたとあったのかしら」
 ノートに書き付けられた文字を追いながら、エンゲはそう口にして、その後で質問がちょっと間抜けなのに気づいた。しかし狩人は、そんなことには少しも気づかないようで、ノートからぱっと明るい顔をあげた。
「もう、ずーっとまえ。ほら、大きな風車がある丘があるでしょ?あの丘の麓で、あなたは、長いことじっと、風をみてた」
「ああ、そんなとこ、みてたんだ」
「それで…ちょっと泣いてた、かな?」
 アカリはにっこりと、脳髄に灼きつけるような笑みを部屋の中にのこして、躰をさっと翻した。部屋から狩人がいなくなってからも、長い間、エンゲは模様の群れにしか見えない名簿の中で、たったひとつ意味を伝えてくるその鋭角的な赤い文字を、いつまでも見つめ続けていた。名簿の上に狩人の羽飾りが取り残されているのに気づいたのは、もうずいぶん時間がたってからだった。


 なんとなく予想もしていたし、そしてまたある程度恐れもしたとおり、講義は初めから終わりまで、しどろもどろの状態だった。議論の為にノートにまとめた事の、半分も話す事ができなかった。みんな、なにもかも、あの狩人の娘がわるいのだ。もう、みんな、あの娘が…。
 講堂の前から四列目。その微妙な位置から、演壇を見つめる瞳。ざっくりと編んだ長い髪の端を弄りながら、何か質問するでもなく、議論に加わるわけでもなく、エンゲのコトバだけをじっと聞き入っている。その表情を自分でもバカみたいに意識して、講義の組み立ても議論の路筋も、まるで真っ白になってしまったのだ。
(ああもう、最悪)
 エンゲは薄暗い廊下を、殆ど走るように研究室にむかった。一瞬でもはやく、静かな自分の部屋に逃げ込みたかった。傍目には冷たく理知的で、剃刀のように怜悧で引き締まった表情の彼女が早足で歩くと、それだけで一定の演劇的効果を与える。しかし今日は、機会があるたびに面罵してくる分岐分類学の学部長が、怯えた禿鷲のように壁際へ引き下がるのにさえ、彼女はまったく気づいていなかった。 
 エンゲは急速に暗くなりつつある窓の外、飛ぶように黒雲が流れていく空を一瞥して、研究室に続く廊下の角をさっとまがった。そして不吉な朱に染まる空気のむこう、自室の扉の前に小さな人影が、縮こまるように座り込んでいるのをみて彼女は、はっとして足をとめた。
 期待して…そして半分恐れていた。小柄な狩人は、膝の間からちらっと目線を向けてきて、立ち上がろうともせずに、濃い血の気配がする夕暮れの中でちょっと申し訳なさそうな微笑を頬のはたにうかべた。
「えっと、その、羽飾りをわすれちゃってて…だから」
 ゆっくりと、ためらうように立ち上がりながら、アカリはお尻についた塵を、軽い仕種ではらった。真っ白だった頭の中に、血の赤がどっと流し込まれる。エンゲは黙ったまま、咄嗟に狩人と自室の扉のあいだに立ちふさがって、思いつくままのコトバを必死でくちにしていた。
「だめよ。早く帰らないと、じきに、ものすごい天気になりそう。…その、羽飾りはべつに、明日でもいいでしょ?」
 ここでこの娘を部屋の中にいれたら、自分でも何をするか、わからない。でもいったい?わたしはなにをするつもりなのだろうか…。
 白くなるほど下唇をかんで、狩人がさっと立ち上がった。腰に添えられた右手が小刀を抜き放つのではと、一瞬エンゲは全身を緊張させた。狩人の羽飾りは、講義用ノートの頁に挟まれて、すぐ手元にもっている。もし狩人が小刀を引き抜いたら、羽飾りを抜いて応戦するつもりなのだろうか。自分の行動の何もかもが、自分でさっぱり理解できない。
 まるで燃え上がる炎のような夕暮れの、赤黒い輝きを全身にまとって、アカリは、かみ締めた唇をぱっと開放すると、まるで泣き出すように切なく笑った。
「…もう遅いよ、ほら。窓の外」
 アカリのそのコトバをじりじりと待っていたかのように、子供の拳ほどもありそうな雹が、ばらばらと軒や屋根を打つ音が、いきなり聞こえてくる。夕暮れの炎は黒衣のなかに抱き取られていくように、急速にその丈を短くしていった。
「だから、ね。なかにいれて、シュルツェンせんせ…エンゲ」
 そういってアカリは、エンゲの腕のなかに自然に、滑るようにして入り込んできた。首筋に近づけられた鼻先は不思議な事に、ああ、最初からやっぱり、こうなることになっていたんだ…そう思わせる蓋然性をもっていた。
 午後の早い時間だったが、嫌な気持ちがする冷たい外気が建物の中にながれこんできていた。その気配が入り込まないうちに、エンゲは知らぬ間に狩人の細い躰を抱いて、転げ込むように部屋のなかに逃げ込んだ。
 驚くほど高い音をたてて、扉が閉じられる。
 じっとこちらを見上げる狩人の、空っぽの帽子に虹色の羽を刺しながら、エンゲはそっとその細くしなやかな腕に抱き寄せられていた。細く、暖かい腕。アカリが躰を被せてくるのと殆ど同時に、ソファの書物が大規模に崩落して、窓の外の雹にまけないくらい、凄い音をたてて床板をうった。
 そのときの彼女はまだ、アカリという蝋燭が信じられないほど短いことに、全く気づいてはいなかったのだ。




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