お客様を迎えるのには、本当にいい季節。マーシェンカは庭先にでて、風の香りを深く胸に入れた。さんざしたちの時間はそろそろ、過ぎていこうとしているのかもしれない。それでもまだ新しくほぐれようとしている、濃い色の遅咲きの固い蕾たちに、彼女はなんともいえない気持ちでひとつひとつ触れていった。
 邸の食堂に沿って造られたテラスは木々の蔭にあって、強くなってきた白い日差しの中でも、そこだけは優しい腕に囲われ、ひんやりと落ち着いた空気にまどろむようだ。紫檀のテーブルには、真っ白なリネンのクロスと白磁のティ・ポット。その脇に広げられた地政学の論文の退屈で無粋な頁に、淡い色の花びらが少し零れおちている。
 テラスに覆い被さるように最後の華を競う赤と白のさんざしと、その中に佇む黒と銀色のマーシェンカに、ハルスはごく微かに口元を緩めた。風が抜けていくたびに白いエプロンにはいくつもの花色の陰がおちて、滲んだ水彩のようにゆれる。その甘さを掬い取るように、彼はティカップに口をつけた。
 国境付近の冬は厳しく、長く居座りつづける。東辺の防御陣地は、夏でも冷たく露が降り、首筋を凍らせる風が鋭くわたっていく、荒れた峡谷にあった。谷の底を這う川はいつも乾いて干上がっており、ごく短い雨の季節以外には、灰色の河床を太古の巨大な生き物の背骨のように、表情も無くさらけ出していた。
 つねに軍隊を−兵士たちを−異邦人のように迎えるその不毛の陣地にあっては、郁からの便りがただひとつ、現実の世の中と自分の存在を繋げるものであったかもしれない。そして、その春にとどいた便りには…。冬の終わり、そしてひんやりとした陽がさしこんだ春の一番最初の日に、国境警備線の陣地まで届けられたマーシェンカの便りはハルスを驚かせ、そして少なからず狼狽させたのだった。
 視線に気づいて、マーシェンカは目立たない微笑をうかべた。しかし気持ちとは別に頬を彩る血の色は、隠しようもない。彼女はまなざしの先にある花枝たちに指先で触れながら、エプロンの中に病んだ葉を丁寧に摘んだ。
「”旦那様、申し訳御座いません。春先の寒気で、たいそう弱っております”そのようにお便りいたしましたので、驚かれたでしょう?でも、もうすっかり。このように美しく花を咲かせて…」
 風がわたって、論文の頁をかさかさと乾いた音をたてて捲っていく。ハルスは木々の様子を丹念に見て廻るマーシェンカに、殆ど気づかれない苦い笑顔をむけた。検分途中で飽いてきた論文を花びらとともに閉じて、彼は菩提樹のお茶をゆっくりと舌の上で味わった。
 マーシェンカ…おまえはやはり、”わかっていた”のだな!こやつめ…。
「あなた様やわたしが思うよりも、このものたちはずっと靭いのかもしれませんね」
 ハルスは黙って頷き、カップをテーブルに戻しながら、いつもより少しだけ華やいだ表情で涼しげにいってのけるマーシェンカに向かって、眉をあげた。
「…どうした、マーシェンカ。なにか楽しそうだな」
「はい。今日は夕刻からお客様がお見えになります」
「来客?…めずらしいな」
「アカデミーから、お二人の教授殿が。なにやら旦那様にご挨拶をとか」
 そういえば昨晩、食事の際にマーシェンカがそんな事をいっていたような気がする。アカデミーから?師団司令部宛てにセレモニーか何かへの招待がきていたが、その関連だろうか。いま、用向きについて尋ねようという発想は、ハルスの頭には全く浮かんでこなかった。重要な用件であれば、マーシェンカが夕餉の会話の中で放置しておくはずがないからだ。
「…やはり、ちゃんと聞いておられなかったのですね。書類に夢中のご様子でしたので、もしかしてと思いましたが」
 マーシェンカはさほど、驚いていない。涼しい表情で、切り取ったさんざしの枝たちを胸に抱えて、ハルスに向かって微笑みかけた。
「さあ旦那様、お花をいけますから。花瓶をご用意くださいませね」
 軽い足取りで邸に戻るメイドに従って、ハルスはやれやれといった表情で席をたった。

「そうですか。アカデミーからいらした」
 ハルスは午後の深い照り返しを受けて淡い茜色に輝く玄関に、二人の来客を向かえながらいった。
「川べりの、大きな塔のある建物ですね」
「そうです。あの戦争のあとでは、シュルベイに沿って、ごく僅かな施設が残されているだけですが」
 来訪者は、”教授殿”という仰々しい肩書きからは想像していなかった印象の、二人の女性だった。一人は、亜麻色の髪をぴっちりと結い上げ、これもまた見事なまでに躰にあった黒のスーツを、禁欲的に着こなしている。装飾品らしいものは胸元に留められた琥珀のカメオと、研究者には少々不釣合いかもしれない、薄く色の入っためがねだけだった。
 もう一人の装いはそれよりももう少しだけ、華やかなものだった。短めの丈の濃いベージュの上着は、えりの部分を大きくフリルにしている。スカートは長めで、同行者と同じく非常にタイトなものだったが、裾からおしりにかけてあしらった、流れるような螺旋状の装飾が、全体に明るい風合いを添えている。肩にかかる白金の髪が陽に透けて、風が抜けるたびに背光のように輝いた。
「師団司令部にお問い合わせいたしましたら、こちらにお伺いするようにと…休暇中ですのにお邪魔をいたしまして、申し訳ございません」
 きっちりした装いの女性が、その外見どおりに、丁寧に詫びをのべた。
「はじめまして。リィン・レノックスと申します」
 黒いスーツの女性は、背筋を伸ばした上品な目礼とともにいった。
「こちらは、エンゲリカ・シュルツェン教授」とエンゲを振り向く。
「このたびの国際会議では、各国から参加いただいた皆様や、軍隊の方々との連絡を担当いたしました」
 エンゲはちょっと緊張してスカートの裾を直し、居住まいをただした。
「お二人とも、よくお越しくださいました」
 ハルスは生来の堅苦しさの中にも、出来る限り愛想良く応じながら、二人を邸の中に招きいれた。
「ハルス・ヴェストファル…国防軍中佐です」
 こちらへ、と促すハルスの後ろについていきながら、エンゲは扉の大きさに目を見張った。控えめにみても大人の身の丈の倍はある、背の高い玄関。見上げると、玄関上部の木組みには幾つも、細かな傷が−まるで刃物で刻んだかのような傷がついていた。それにしても、なんて高い天井。まるで巨人たちの往来を想定しているような…どうやって掃除、してるんだろう…。
「あぶないですよ」
 柔らかな声にはっとして前をみると、すぐそこに−すぐ鼻先に−黒いワンピースに真白いエプロンの女性が立っていた。思わず正面に衝突しそうになったところを、意外にしっかりした腕で、柔らかく受け止められる。
「すすすみません!」
 黒いワンピースの、しなやかな腕につかまって顔を上げると、銀色の睫に翳られた琥珀の瞳が、息の絡みあう距離で見つめていた。エンゲを映しこんで、瞳はにっこりとわらった。
「大丈夫ですか?」
「ごめんなさい、わたし、ぼやっとしてて…」
(すごく、綺麗なヒト。中佐の奥様かな?)
 エンゲは咄嗟に躰を離そうとして、その女性がじっと自分の瞳の中を覗き込んでいるのに、気がついた。
「これは、失礼をいたしました」
 女性は丁寧に、深くお辞儀をした。髪に飾られたカチューシャが、さわさわと揺れる。所作の隅々まで洗練された上品な立ち振る舞いに、エンゲは軽い嫉妬を感じて、視線を自分の手元におとした。
「どうぞ、こちらへ」
 エプロンの女性について、天井が高く明るい佇まいの食堂に案内されると、既にリィンは中佐に椅子を勧められているところだった。
「マーシェンカ?何をしていたのかね」
 中佐はエプロンの女性にむかっていった。少しきつい響きのコトバだったが、マーシェンカは全く気にするようでもなく、自然なお辞儀で応えた。
「申し訳ございません、旦那様。ご案内に手間取っておりました」
「すみません!わたしが玄関でコケてしまったので…」
 全く同時に、エンゲの謝罪が重なったので、二人が何をいったのか解らなくなってしまう。中佐は微かに眉を上げただけで、マーシェンカに午後のお茶を出すように頼んだ。
「ではマーシェンカ、そのようによろしく頼む」
「…メイドの方に、随分ご丁寧ですね?」
 丁寧に黙礼してマーシェンカがさがったのを見計らって、リィンが面白そうにいった。
「彼女は我が家の執事でもありましてね。これ以上なく有能な」
「女性のようですね。それに−」
 そういってリィンは、食堂の上座に掲げられた、ヴェストファル家の家紋を美しく縫い取った大きな、華麗なタペストリーに目を向けた。それは顔を伏せたバジリスクを描いたもので、軍人の家系に好まれる火龍や武具といった勇壮なものとは、いささか趣を異にしているようだった。
「執事が常に男性である必要はないと、認識しております」
 ハルスはリィンの目線を黙殺して、エンゲのために椅子を引きながらいった。
「女性に偏見をおもちですか」
「そう、少しばかり偏見があるかもしれませんね。特にあの方のように、まるで人の領域を超えた、美しく聡明な女性には」
 そういって睫の間からちらりと、戻ってきたマーシェンカに目をむける。トレイを手にしながら、彼女はその視線の中で微動もしなかったし、ハルスも唇の両端をきつく持ち上げた、不吉な笑みを浮かべただけだった。マーシェンカは音も立てずに、テーブルの上にお茶を用意し始めた。
「…どうぞ」
 袖口まできっちりと縫いつめられた、非常に保守的な感じのブラウス。すこし薄い夏物の生地を通して、瑪瑙の腕輪だろうか、綺麗な綾が手首にちらっと透けて見えた。繊細な美術品のように切り分けられたミルフイユをのせた薄いお皿の縁には、マーシェンカの腕輪に似た精妙な模様が焼きこまれていて、その洗練された挑発にリィンの口元が誰にも殆ど気づかれないほどに綻んだ。
「冗談ですよ、もちろんですが」
 ありもしない糸くずを胸元から摘み落として、カメオの位置を微妙に修正するリィンの手元を、マーシェンカは手を握り合わせたまま、静かに見つめていた。
 凝ったパターンの厚いレザック紙で華麗に装丁された、大ぶりなパンフレットを黒い書類挟みの中から取り出すと、リィンは腰を浮かせて中佐の前に差し出した。
「このたびは軍隊の皆様に大変なお骨折りを頂戴致しまして…国際幻獣学会の全日程をつつがなく終えることが出来ました。衷心より、お礼を申し述べます」
 上品に目を伏せるリィンに続いて、エンゲも慌てて腰を浮かせた。
「そして、あの峠道で義務を全うされた皆様にも…」
 ハルスの目の表情がほんの僅かに変わったのを感じて、リィンは控えめに頸を傾げてコトバをつけ足した。
「拙掌ですけれども…また、ご無礼がありましたら、どうぞお許しください」
 パンフレットの厚手の表紙を開いて、リィンは見返しをそっとハルスに示した。そこには飾り気のない、だがしっかりとした文字で、簡潔にコトバが記されていた。
”峠を守るために斃れられたいつくさに、和平のご報告と共に”
 ハルスは黙って、パンフレットを手に取った。よく気をつけなければわからなかったが、それは印刷ではなく手書きの文字だった。見返しにはその文言を取り囲むように、幾つかの署名が並んでいる。それぞれのナマエには憶えがあった−アカデミーによって国際会議の開催が企画された際に、諜報部から細かな経歴や思想的背景とともに提供された、周辺各国の主だった学者たちのものだ。それにしても、学者らと同時に入国している政治家達のナマエがひとつも見当たらないことは、興味深い事だった。
 レノックス教授か、シュルツェン教授か。誰かがおそらく、各国、各地方の代表者をひとりひとり尋ねて、これらの署名を集めて回ったのだろう。
 ”和平”という甘美な単語のすぐ下には、極めて上品な細い書体で、”セグラーティ卿・リッカルド・モレッティ”と記されている。その筆記は、仇敵ドラギオン帝国のコトバによるものだった。
 今度こそ眼差しで明らかな合図を送ってくるリィンに、ハルスは黙って頷いて応じた。
(−和平−)
 舌先に心地よい雰囲気を裏返しにした、その苦い意味合いを、彼は音もなく喉の奥で反芻した。昼間検分していた地政学の論文が、重い塊となって胃袋の中から戻ってくるようだった。
「…いうまでもなく、戦争は”政治力行使の極限”で、和平はその終結シナリオのひとつです」
 数呼吸おいて、遠い雷雲のように少しずつ蟠りはじめた感情を抑えながら、ハルスは静かにいった。
「しかし今回の戦争ほど、終わりの形がみえない戦いは、かつてなかった…。恐ろしいことです」
 中佐のコトバに黙って頷きながら、リィンは脇でおとなしく控えているエンゲに目線をうつした。低下しつつある外交的温度を感じているのか、彼女は少し目を伏せて、お皿のミルフイユを、その繊細なフイユタージュをじっと見つめている。秋の初め、気づかぬまに鋪道にふりつむ木々の葉のような、寂しい彩のかさなり。ふと、テーブルの脇に佇むマーシェンカと目が合った。彼女の琥珀の瞳はなにかいいたそうな表情だったが、結局さきに口を開いたのはリィンだった。
「−あなたは、戦争をおそれていらっしゃいます?」
 リィンの冷厳な瞳が、まっすぐにハルスを射るようだった。
「あらゆる軍人は、戦争を抑止するために存在しています。そして、国家が管理する唯一の暴力装置としてわれわれが存在する以上…」
 すこしの沈黙の後で、ハルスはパンフレットの表紙を丁寧に、静かに閉じた。そして二人の教授にむかって会釈したが、そのまなざしは真っ直ぐに、訪問者達の目の奥を射すくめていた。その視線を数呼吸まともに見返して、リィンは表情を変えずに淡々といった。
「あなたのような軍人がもっと多くいらしたら、あの戦争は起こらなかったのかもしれませんね。あるいはまた、あなたのような軍人がもっといらしたら…」
 お茶を一口そっと唇にはこび、目線はカップの縁にふせたまま、リィンは凍てつくような笑みを頬の端にうかべる。ハルスは一瞬、胸の奥を深く突かれたようにおしだまった。そして…信じられないことに、怒りに翻弄されそうになっている自分に気づいて、ぎゅっと顎を引き締めた。
「−今日お越しいただいたあなた方には、お礼を申し述べます」
 自分でも訳のわからない感情をおさえて、かろうじて口をついたのは、まったく内容のないコトバだった。
「先の戦役で斃れたものどもにも、慰めとなることでしょう」
 几帳面で堅苦しい挨拶にエンゲは戸惑いながら応じて、そしてその機会にハルスと直接視線を交わした。奥の知れない、冷たく青い目。真っ黒で硬そうな生地の軍服−もしかして、軍人って普段でもこんな格好なのだろうか−。襟元を飾る凍るような青い十字の勲章は、中佐の瞳の色に、そっくりだ。それに…なんて怖い顔。表情はこんなに穏やかなのに、どうして怖いと思うのかはわからなかったが、中佐の冷たい憤りが儀礼の向こうに透けて見えるようで、エンゲは耳のうしろの髪がちりちりと逆立つのがわかった。
 隣ではまるで、リィンが一対一の決闘を挑むひとのように、黙ったまま中佐の次のコトバを待っている。マーシェンカは何か居心地が悪そうな佇まいで、握り合わせた掌に視線を落としたままだ。ここの空気は冷たすぎるし、重すぎる。この邸にいま足りないのは、明るい快活な笑い声と、暖かく絡みついてくる腕のぬくもりだ。
 エンゲはもうすっかり消えてしまった胸元のキスマークにそっと指を這わせながら、本当ならいつも傍らにあるはずの愛しい肌の香りを、焦げるように思い出していた。その温もりはいまごろ…この時間帯にもいまごろ、真昼でも薄暗い林の中か、もしかして荒ぶる風が吹き渡る岩場か、あらゆる危険が跋扈する厳しい環境に身を曝しているのだろう。
「わたくしどものほうこそ、休暇中にお邪魔をいたしました」
 沈黙のあとに結局リィンが口にしたのは、差し障りのない挨拶だった。
「ああ、それにもうこんな時間に。長居をお詫びいたします」
 知らぬうちに黒雲が蟠り始めた、遠い西の空にちらりと目をやって、彼女は礼儀正しくいった。風も出てきたようで、テラスを蓋う木々の太い枝が、大きくゆれ始めていた。
「今宵は…お帰りは難渋されるかも…」
 その時、風に手折れたさんざしの小枝が、パシッと音を立ててテラスに面した窓にぶつかった。鋭いその音を聴いて、マーシェンカが呟くようにいった。
「…夏の嵐になります」
 まだ陽も沈みきっていないというのに、空は吐血したような暗い深紅に染まり始めていた。どす黒い赤の中を、なにか気味の悪い茸が育つように、低層雲がそらに向かってわだかまっていく。
 夏の初めには、夜の雨が多い。雨は冷たい風をもたらして、時に嵐のように荒れることがあった。今夜はどうやらそのような晩のようだった。
「この様子ではマーシェンカのいうように、じきに嵐がやってきます。今宵は我が家に逗留されるのがよいでしょう」
 ハルスはマーシェンカに向かって目線だけで頷き、ティカップを脇に退けた。
「窮屈な宿で申し訳ありませんが、出来れば寛いでいただきたいと思います…マーシェンカ?」
「かしこまりました、旦那様」
 トレイにカップを下げながら、マーシェンカは黙礼して応えた。
「それでは、よろしければ皆様に夕食の御支度を。その前にお客様を、寝室にご案内致します」
「そうだな。すまないが、そのように頼む−如何ですか?」
「申し訳ございません…それでは今宵一晩、ご迷惑をおかけいたします」
 まったく思いがけない学部長の返答に、エンゲはもう少しで驚きの声をあげるところだった。中佐は軽い感じでうなずくと、マーシェンカに目で合図をおくった。
 なんか…自分だけをおいて、いろんな物事がどんどん進んでいくみたい。
 マーシェンカになにやら話しかける中佐の声を虚ろに聞きながら、エンゲは強い風の気配が踊りはじめた窓の向こうを、魅入るように見つめていた。そういえば、アカリのことをはじめて"知った"のは王冠戦役の前の年、嵐が今日のように厳つい肩を怒らせた、寒い、夏の初めの日のことだった。




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