幻獣学会は、黙っていても汗が流れるような、熱い夏の日中に盛大に幕をあけた。幻獣生態学の多様な研究を表象するように、ホールは内外多数の研究機関からの参加者で賑わって、熱気と活気でむせかえるようだ。エンゲはブラウスの襟元に少し空気をいれながら、ドラギオンからのお客を出迎えるために、ホールの入り口で辛抱強く待ちつづけていた。イカル・ドラギオで開催された前回の国際会議のときから、そんなに変わっていないなら、特徴的な風体からすぐわかるはずなのだが…
「おお、エンゲ!久しぶりだな」
 エンゲが相手を見つけるよりもはやく、長身の学者が大きな声で呼びかけながら、近寄ってきた。大国・ドラギオン帝国の生態学者だった。強烈に癖のある黒い頭髪をボサボサに伸ばした、がさつな風貌。激怒したミノタウロスでも捻じ伏せそうな巨躯は、死んだ学問といわれた数理生態学を、単独で復活させた不屈の天才に相応しいかもしれない。「ごちゃごちゃいわずに計算しろ」が、この学者の口癖だった。
「相変らず、別嬪だ。それにおっぱいも、また大きくなったんじゃないのか」
 笑いながら話し掛ける内容には、まったく品格が感じられない。しかも割れるような大声で、ホールのあちこちから視線が集まるのを感じる。エンゲはしかたなく苦笑して、本当なら向う脛に蹴りの一つも入りそうな猥雑な挨拶をやり過ごした。
「お久しぶりです、セグラーティ卿。遠路をようこそお越しくださいました。イカル・ドラギオ以来ですね」
 深いお辞儀と共に学者の荷物を預かり、エンゲは華やんだ笑みを見上げる目の先に送った。
「モレッティでいい。おまえに”セグラーティ卿”なんて呼ばれると、気持ち悪くてかなわんよ」
 エンゲはすこし苦笑しながら、頷いた。
 この下劣な学者はこれでも、諸侯がドラギオンの下に帝国として統合される前から、八代続く貴族の家系にあった。セグラーティ湖畔の広大な領地の美しさは、ここファル=カルクまで伝わり聞こえていたが、そこに水属性の幻獣たちが多く出没するという風評も、この学者の怪しい風貌にさらに微妙な風味を添えていた。
「”イカル・ドラギオ以来”か。そうだな…あの時は、お前の師匠に散々にやっつけられたからな」
 モレッティのごつい腕で、肩を叩き伏せるように抱かれて、エンゲは抱えていた名簿や会場案内のための資料を地面にばら撒いてしまった。
「…もう!…ところで、いつものお弟子さんは?」
「おう。ジョバンニはな、ポスターセッションを準備していたが、土壇場で理論の破綻がみつかってなあ」
 散らばった資料をエンゲとともに拾い集めながら、モレッティは唸り声とも苦笑ともつかない音響を発した。
「最初はちょっとした計算の間違いと思ったが、こいつが実は致命的でな。今ごろはまだ、ふてくされながら再計算しとるだろう」
 硬い髪を掻きあげて、なんとも微妙に眉を蔭でひそませる。
「それは、残念ですねー」
 乱暴ないいざまの中にそっと忍び込ませた、師としての思いやりのかけらに、エンゲははんなりと心が暖かくなるのを感じた。
「それでは、主講演の講演録ができあがったら一部、お弟子さん宛てにお送り致しますね。えーと、イカル・ドラギオ…ドゥーレ研究所の…ジョバンニ様?」
「ジョバンニ・グラッシだよ。いい加減に覚えてやってくれ」
 エンゲは、きまりの悪い表情で頷いた。どうも、ヒトの名前と方向−道順−については、いくらがんばっても覚えがよくない。モレッティの若い弟子にしても、何回か顔を合わせているはずなのに、殆ど印象に残っていないようだ。これ以上突っ込まれる前に話題を替える事にして、エンゲは努めて事務的に書類をめくった。
「それでは、グラッシ様のポスターブースは、整理させていただきますね…残念ですけど」
「そうだな。それで俺の講演は?何番目になっている?」
「モレッティ先生のご講演は…ああ、二番目ですよ。”タツバ北方における河蝕地形と幻獣種間での非連続なニッチ分配に関して”…」
 セグラーティ卿モレッティは、満足げに大きな顎をもごもごさせて目を細めた。
「ううむ!もう今回は、俺の理論をロトカ−ボルテラ系の陳腐な焼き直しなどとは、いわせないからな!で、スメイヤは?」
「ナッサール先生は…」
 エンゲは一瞬いいよどんだ。
 ああ、ナッサール先生!
 スメイヤは…エンゲがこの世の生の中で唯一人、恩師と呼べるヒトは、今年も、十年後も、永遠にこの研究の野にはもどってこないだろう。微妙に目を合わせようとしない彼女の表情から何かを読み取ったのか、モレッティは「今日は、きてないんだな」とだけ、簡潔にいった。
「ま、しかたないな…それにしても、このあいだ師匠の脇で小さくなってたおぼこい娘が、あっというまに、今はおっぱいのでっかい正教授か!そのおっぱいの中にも脳味噌を隠してるんじゃないのか」そして独りで大きく笑い始める。
(どこまでいうつもりなんですか、先生!)
 今度こそ爪先で思い切り巨漢の向う脛を蹴りつけるが、相手は全く意に介さない。厚い生地のズボンに残った靴底の痕が、かえってエンゲを慌てさせた。
 屈んで汚れを払い落とそうとした時、相手の頭が自分の目の高さまで、ぬうっと降りてきた。太くて長い人差し指が、鼻の頭に突き出される。
「でな、エンゲ。例の丘の発掘の方は、どうなった?」
 先ほどの大声から一変した、まるで共犯者のようなささやき声。
「戦役の前に、スメイヤから何回か聞いたことがある。”背徳者の墳墓”を掘り返す計画があるそうじゃないか。抜け駆けるなよ。その時には、俺にもちゃんと一声かけるんだぞ」
 どうしようか、と一瞬迷ったが、現場から逃げ帰った件はどうにか不自然の無いように省略して、エンゲは先日の発掘行について簡単に説明した。
「それは残念だったが…まあこの先、幾らでも機会はあるだろう。今度は俺が、あのちっこい嬢ちゃんとまとめて、あの丘に連れて行ってやろう。俺がいれば何の心配も要らんよ」
 なんとなく複雑な、侮辱されたような気分で、エンゲは返答を躊躇った。それに今度またあの丘に行ったら…今度こそ本当に、リィンを怒らせてしまうだろう。そう考えると、背中のあたりを冷たいものが伝い落ちていった。
 モレッティは何か勝手に納得して頷くと、再び重い腕を彼女の肩に回して、ぐいっと会場入り口に向かった。
「さっ、そろそろ開会の挨拶ってやつが始まるんだろう。鬱陶しいがサボるわけにもいかんからな」
 連れ込まれるようにして入った主会議場は、既に半数近い座席が埋っていた。セレモニーに招待されたはずの、第九師団の軍人たちの姿はどこにもなかった。師団本部は今、ファル=カルクの軍団司令部に戻ってきているのだが。担当者だという大隊指揮官からは広報を通して、アカデミーの招待に対する丁寧な辞退の返答が−即座に−届けられたのだった。細かな心配りの行き届いた文面から、エンゲは差出人が女性ではと思ったのだが、署名は世事にうとい彼女でも聞いた事がある、古い軍人の家系のものだった。
 空いてしまった席次は、替わりに中央政府の議員によって埋められる事になった。隣国からの招待者が多いことからも、結果的にはこれでよかったのかもしれない。エンゲはモレッティとともに、舞台の袖にある控え室に向かった。
 開会の挨拶や祝辞の後には、セレモニーだけに出席する有力議員や国外からの招待客たちは別館に移り、他にも十ほどの会場で、様々な発表が行なわれる。この主会議場では、最も著名な学者たちの講演や、主要な学術的成果の発表が行なわれることになっていた。隣国のドラギオン帝国からは環境幻獣学と、ほぼ一世紀ぶりに息を吹き返した数理生態学が、アカデミーからは幻獣学としては初めての、生化学の発表が予定されている。
「おっ、始まったようだぞ」モレッティが、舞台の袖から声をかけた。控えの奥にいたエンゲが、明るく照らされた演台を覗き見てみると、挨拶に立つリィンの引き締まった横顔が見えた。
「ふーむ。やはりいいオンナだが、まえに会った時よりもっと近寄り難い気分だな。なんか、あったか?」
 エンゲは思い切り頸をふった。このちょっと下品な貴族は、案外鋭いところをみている。
「まあ、いいとするさ」
 そういってモレッティは、その巨躯を質素な事務用の椅子にどかっとおろした。長い脚をくみ、大きな靴底をこちらに見せて身体をのばす。小さな椅子の上で、これはなかなか器用だ。
「まだまだ、挨拶が続きそうだからな。少し寝させてもらうぞ。俺の出番がきたらおこしてくれ、な」
 そういうなり、原稿の束を顔の上に広げて…もう鼾をかきはじめる。
「モレッティ先生!あんまり大きな鼾、演壇まできこえちゃいますよ…もー」
 エンゲのか細い抗議はモレッティの鼾にかき消され、非難を帯びた周囲の視線の中で、彼女はもう少しでこの大男の口と鼻を押さえつけるところだった。

「…これらの経過により、古典的な動的安定性のモデルは排除され、逆に大容量リプリケータ系の安定性が論証されたと考えます。連続したニッチで離散的な分布が見られるというこのモデルは、極わめて希少な幻獣種が、ごく限られた地域でしか観測されないという事象を、簡潔に説明する事ができるわけです。変動する環境や不均一な環境を扱うモデルでは、一定環境を想定するものよりも数学的に複雑になりがちです。しかしながら”幻獣”という現象に対する興味と、斬新なアイディアが絶えず若い皆さんからもたらされる事を、そしてそこから豊かな研究の実りが得られるであろう事を、確信してやみません。以上、ご静聴に感謝します」
 黒板を最大限に使った、ダイナミックなモレッティの講演が終わった。大迫力の講演に会場は数秒間、精気を搾り取られた男性のように萎え静まったが、やがて繰り返し波が打つような拍手に包まれていった。
 司会者に促されて聴衆から発せられた質問を、まさに切り伏せるように処理していくモレッティは自信に満ちていて、スメイヤから突きつけられた質問の前でたじろいだ嘗ての面影はどこにもなかった。
 とうとうやってきた自分の講演の時、まるで柔らかいマットレスの上に立っているような、不安な非現実感の中にエンゲは独りで取り残されていた。演題を紹介する司会のリィンの声が、不自然に近くで聞こえる。
「…演題は”幻獣の変成誘発前駆体として機能する存在因子仮説”それでは、お願い致します、エンゲリカ・シュルツェン教授」
 エンゲは緊張ですこし蒼褪めたまま、演台に立った。聴衆からのひとしきりの拍手が終わるまで、なんだかずいぶん長い時間が経ったようだ。講演を聴取にやってきたさまざまな顔ぶれの、それぞれの目線が集中するのを、彼女は殆ど物理的な力として感じていた。学者もいれば、一般の聴衆もいる。黒いスーツの肩でゆれる白金の髪は、誰の目にも冷たく鮮やかな印象を与えたが、エンゲには聴衆のそんな反応を分析するゆとりは全くなかった。
「高純度な幻獣原質の精気に対する過度な曝露は、精気ストレスとして知られています。これが生み出す精気由来の代謝産物が幻獣にストレッサー因子として作用し、いわゆる精気依存状態を誘引する原因の一つとなる事は、これまで経験的に認識されてきました。しかしながらいっぽう、幻獣原質それ自体にどのような性質の精気を投入しようと、変成や消滅といった劇的な形質遷移の亢進を直接うながす誘導感受性を、一切示さないこともわかっています。つまり、精気依存を引き起こす補体効果などの純粋な生合成経路とはまったく別の要素によって、”変成”という極端な形質遷移作用が引き起こされると考えられます。われわれは形質遷移を直接導く要因として、二つの仮説を導入しました。ひとつは、幻獣の生化学的な間隙をついて、生理的特性を一気に亢進させるエフェクター因子の存在、もうひとつは、幻獣が”この世界”に存在する確率を直接変動させる、霊的ともいえるレセプター因子の存在。これをわれわれは、存在因子仮説と名づけました。この仮説では、幻獣原質については存在確率の変動に応じて表現の型を変える、”存在因子”を包む器のようなものと考えています…」
 聴衆を見渡しながら、エンゲは議論の導入部の中をすすんでいった。ようやく少しばかり、演台から議場を観察する余裕がでてきた。この段階ではまだ聴衆の反応は批判的でも、友好的でもない。彼女は黒板を大きく使って図表を展開すると、議論を次の段階に導いていった。
「幻獣の存在因子−存在すると仮定してですが−それは勿論、一般の生物でいう意味での遺伝子ではありません。表現の型は似通っていますが、性格は別のものです。まず、変成変異率のおおきさが存在因子に書き込まれていることで、変成確率に不安定な要素がもたらされると考えてみましょう……」
 論理の路筋を繋ぎながら、エンゲはいつのまにか会場に誰かの姿を探している自分に気づいた。それがアカリの姿なのか、スメイヤの姿だったのか…しかし、いまはそうした自分の心理の動きを解析している場合ではなかった。エンゲは自分の心をこの場に、この講演の現場に改めて定着させなおすかのように、存在という単語に力を込めた。


「セグラーティ卿」
 非常に美しく澄んだ、しかも正確ではっきりとした発音で呼びかけられて、モレッティはさっと振り返った。まるで気が向かないまま顔を出したサロンで、口うるさい顔見知りに声をかけられた感じだ。そこではリィンが、両手をきちんと膝上にそろえた姿勢でこちらを見つめていた。
「レノックス教授。本日は会議の初日をつつがなく終えられて…衷心よりお慶びを申し上げる」
 リィンはごく軽い目礼でそれに応えた。
「有難う御座います、卿。すばらしいご講演で初日を盛り立てていただいて、此方こそ心よりお礼を申し上げます」
 モレッティは、口の両端だけで優雅に微笑んだ。コトバ振りは下品だが、さすがに洗練された家系に育ったと見えて、笑い皺にはどことなく気品のようなものが感じられた。
「それで用向きは?合理的なあんたの事だ。外交辞令のために呼び止めたわけではないんだろう?」
「そうですね。では失礼を承知で、お願いを致します」
 リィンは丁寧に頭を下げて、モレッティを上目に見上げた。
「シュルツェン教授を少し…気晴らしに連れ出していただけませんか?」
「気晴らしか?」
 モレッティは顎を掻きながら、怪訝そうにいった。この気高いオンナが頭を下げての頼みごととは。優越感よりも驚きが先に立って、間の抜けた当たり前の反芻が舌先でもつれた。
「はい。ここ数日は眠れない日が続いていたように思われますので。今日は少し羽を伸ばして、旧知の貴方様と」
「ふうん」
 モレッティは、彫像がいきなりしゃべりだしたのを目撃した人のような顔で応じた。
「いろいろなことを抱え込んでしまう方ですので、口に出せずになにか悩んでいると思います。わたしには言いにくいことでも、貴方様になら気を許して相談できるかもしれません」
 情けない上司で申し訳ありませんと、リィンは再度頭を下げた。モレッティは、リィンの声にほんの僅かに滲みでた苦悩に気づいて、軽く眉をあげた。
「なんだか、あんたの話を聞いてると、エンゲのことを妹…いや、娘だ。娘のことを話す母親のように思えるな」
「娘ですか」
 リィンは何の表情も見せずにいった。
「わたしには子供を持つ能力が備わっていない事を、貴方様はご存知のはずですが」
 そのコトバには、モレッティも慌てて掌をパッと前にたてて、謝罪を述べるしかなかった。そして取り繕うように付け加える。
「レノックス教授、あんた…。前にあったときは思わなかったが、あんたはもしかして、本当はイイ奴なのかもしれないな」
 そういってモレッティは、今度は気品のかけらも無い下卑た笑いを、にやりと浮かべた。
「−とても、無意味な言明ですね、セグラーティ卿。さあ、貴方様のためにゲストハウスの特別な一室を準備してあるのですから、今夜は必ず戻ってきてくださいね。…シュルツェン教授の事を、宜しくお願い致します」
「…そうだな。俺もまだまだしぶとく長生きして、研究を楽しみたいからな」
 モレッティはさっとリィンに背を向けた。
「御理解を頂いているようですね。深甚に存じます」
「ま、今夜はあんたのエンゲを借りるとするよ。ではまた明日…な」
 そういって初日閉会間際の、浮かれた雑踏に紛れていくモレッティを、リィンは冷たい眼差しで、いつまでも追いかけていた。

「しゃあない奴だな〜!いったいいつまで、何をうだうだと引き摺ってるんだ」
 空になった大きなビールのジョッキをがたん、とテーブルに戻すと、殆ど怒鳴りつけるようにモレッティはいった。まだ夜も浅いというのに、パブ”黒馬車亭”の店内は、大いに賑わっていた。客の半数はアカデミーで開催された学会の参加者、といったところである。
「スメイヤにはスメイヤの結論があったのさ。それを受け入れないのは、まるでだらだらと続く女の自慰みたいなもんだ」
「うっるさいですねぇ〜〜って、すみません、まだ敬語になってますよね…」
 エンゲはというと、殆ど目が据わっている。緊張の連続だった学会の初日をひとまず終えて、どっと箍が緩んだのだろう。
「先生なんかには、わたしのせんせーに対する愛は判らないんですよぅ」
「まったくだ。なにいってるのか、さっぱりわからんぜ!」
 モレッティは豪快に笑って、店員に大きな声をかけた。
「おうい、ビールの追加を頼む!ジョッキを二つな。それとつまみを、何でもいいから大量にもってきてくれ」
「たいりょうぉ〜?先生、数理ほにゃららが専門なんでしょ?定量的でないですねー」
「だまれ、酔っ払い」
 なみなみと注がれたダークエールのジョッキが、目の前に置かれて重い音を立てる。エンゲは両掌でジョッキを取ると、ぐっと口をつけた。
「こら。何か食わないと、呑んでばかりだと毒だぞ」
 ジョッキとともに料理の大皿を運んできたまだ若いウエイターが、モレッティのコトバに糸のように目を細めていった。
「お客様、もしかしてドラギオンのお方で?」
 そうだよ、と呟いて大皿料理に目を見張るモレッティに、ウエイターは芸術的なまでに洗練された笑顔を振り向けた。
「そうではないかと思っておりましたよ。ドラギオンからのお客様も、最近では特に増えてまいりました。このような商売ですからね、他国からのお客様は、特に喜ばしいですよ」
「ああ、そうなんだ」
 エンゲは誰にいうでもなく、独りごちた。そうすると以前に会議で、誰かがいってた事もあながち風聞だけではなさそうだ。
「うん…これは本格的だ」
 モレッティは大皿に盛られた、焼いた鰻の料理に向かって、両掌を擦りあわせた。
「おばあちゃんの料理だ…なかなか商売人だな」
 おそれいります、と黙礼してウエイターが下がるのを待ちかねたように、モレッティは香草とあわせて蒸し焼きにした鰻料理を、フォークで口に運んだ。
「タツバ川の鰻だ…これは美味い」
 お前も食え、とすすめられて、エンゲは一切れを口に運んだ。少々味は濃かったが、上品に臭みと脂を抜いた白身は、口の中でほろほろとほぐれた。
「うん、おいしいですよー、先生…どうかしました?」
 エンゲは、自分の口許をじっと見ているモレッティの視線にぼんやりと気づいた。
「いや、官能的な食べ方をする奴だと思ってな」
 そのコトバに慌てて口許を掌でおさえて、エンゲはじろりとモレッティを睨みつけた。
「おっと…冗談だ。たしかにこのまま、お前を頂いてしまいたいがな。そんな事をしたら、あとであのちっこい嬢ちゃん…」
「…アカリですー…」
「そうそう、その嬢ちゃんに、殺されそうだしな」
 モレッティは、ジョッキをぐいっと咽喉に流し込んで、満足げに口元を拭った。
「そういや、嬢ちゃんはどうしてる?相変らず危ない仕事をしてるんだろう。惜しいな。あんな窮屈な鎧を着てたんじゃ、育つものも育たんぜ!」
 そういいながら、エンゲのおっぱいを掌でわやわやと揉みしだく仕草をする。
(こ!このけだもの〜〜〜)
「先生、アカリに手を出されたりしたら、承知しませんよ!」
 真っ赤な顔で睨みつけるエンゲに、おかしな敬語だといってモレッティは更にひとしきり笑った。その大きな笑い声をも制圧するような歓声が、奥のほうの宴席から聞こえて、モレッティはなんだ、というような顔をして首をのばした。
 いかがわしい野次やら賛辞やらににこやかに応えているのは、暗いグレーの衣装に色鮮やかな組紐や飾り玉をまとった、細身で長身の吟遊詩人だった。体形も顔かたちもすっぽりと覆う衣装のために性別は伺えなかったが、その物腰からもちらりと覗いた細い指先からも、女性ではと思われた。
 吟遊詩人はあちらこちらのテーブルをめぐりあるき、酔客の戯言を軽くかわしていたが、やがてエンゲたちのテーブルまでやってくると、踵を軽く持ち上げて足をとめた。
「遠い邦の枕語りをひとくさり、お耳の慰みにいかがですか」
 目深く被ったつばの広い帽子の中で、やはり表情は窺い知れない。真っ白い顔と、目の下を隈取り、唇を彩る同じ花色が、鮮やかにみえた。モレッティは、ドラギオンの訛りに頬をゆるめて、銀貨を三枚テーブルの上に並べた。
「何を語ってくれるのかね」
 まるで手品のように掌の中に銀貨を掬い取ると、長い髪を垂らせて、吟遊詩人は両膝を立てて足を組み、床に腰をおろした。
「それでは、”塔と姫冠のバラッド”を…」
 詩人が長い、細い指を巡らせると、月の形の竪琴が膝の間で銀色の声をあげた。花の色に染めた唇を割り、高くまた低い抑揚にのって、深い葛藤と果ての無い悲しみが詠われた。

 ・・・・
 音のない湖面に落ちる
 二枚とない金貨 冷たい月 
 その面に 星と星が
 千の星が銀色の細い剣を突きたてた。

 輝きで満ちた宵に鳴り渡る 
 比類のない太陽 輝く竜の冠
 王の中の王 その御頭に
 眩しい輝きで表情は隠されてしまう。
 
 遍歴の戦士に 水龍の贖罪
 姫冠の女王にこそ 永遠の祝福あれ
 ナイフの鋭さでめぐる 風の曲がり角が
 王の背に 緋色の外套を軋ませるまえに
 ・・・・

 自分の理想に敗れた王が眠る、暗くて冷たい墳墓。そこをいつまでも守る、ヒトと幻獣の間の命を生きた、それは、気高く寂しい女性の唱だった。
 物語はあまりにも淡々と詠われたので、最も劇的な場面である戦役の勃発と、新王と姫冠の女王による調伏のくだりでさえ、まるで儚い夢の一部を除き見るようだった。
「なあ、エンゲ。いまのイカル・ドラギオはいいところだぞ。新しい王は…なんていうか…とても不思議なお方だよ」
 バラッドが語り終えられて、儀礼的なお辞儀とともに吟遊詩人が去るのをまって、モレッティは呟くようにいった。そして少し、真剣な顔になる。モレッティの良くとおる声が秘め事を語る可笑しさに包まれながら、エンゲはぼんやりと、続けられたコトバを素通しで聞いていた。
「…お前がいま、危ない領域に指を突っ込もうとしてるのは、なんとなくわかる。だからな、本当にまずい事になったら、絶対に俺を訪ねてきてくれよ。かならず、力になる」
「じゃあ、アカリと二人で転がり込んでもいいんですか?」
「歓迎するぞ。もっとも、セグラーティ湖のものたちが、なんていうかはわからんがね」
 そういってモレッティは、ひとしきり大きく笑った。
「さ、エンゲ。そろそろお開きにするか?今日は随分と疲れたんだろう。もう帰って、休んだほうがいいな」
「ああ〜、ほんとう。もうこんな時間。あしたも朝、はやいのに。はあ、わたしって意思はくじゃく…」
 エンゲは眠そうな目で、カウンターの上にかかっている大きな時計を見上げた。
「そうだ…お前に土産をもってきていたのを、忘れるところだった」
 モレッティは荷物の中から、良い香りのする包みを引っ張り出して、いった。
「この季節にだけつくられる、セグラーティ湖畔名物のチーズだ。地元では”ファタ・モルガーナ”なんて呼ばれている…」
「…甘い、いい香りですね…」
 包みを広げようとするエンゲの手を、モレッティはそっと押しとどめた。
「あわてるなよ。もちろん今味わうのもいいが、ほんとうはあと一ヶ月ほどは寝かせて、熟成させた方がうまいんだ。あの嬢ちゃんといっしょに食べるんだな。愛が育つぞ」
 軋る扉を押し開けて店の外に出ると、心なしか…ほんの少し涼しい風が感じられた。なんだか息苦しいほどの、湿度の高い夜だったが、風がある分、心地いい。
「大丈夫か?送っていこうか」
「ひとりで、帰れますよー。卿こそ、まっすぐにゲストハウス、戻ってくださいね。レノックス先生は、怒ったら怖いですよ…すごく」
 わかっている、というようにモレッティは掌をひらひらと振った。エンゲの後姿が通りの角をまがって暗闇に消えていくのを律儀に見送って、彼は先ほどの吟遊詩人をもう一度捕まえるべく、パブの中に戻っていった。




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