まるで踊るように陽気で乱れた足音と、それをつつみこむ低く深いざわめき。秘密の話を語るような通奏低音の波間から、ときおりの歓声や大きな笑い声が、金管楽器の鮮やかさで軒先を駆け上がっていく。道具屋筋の少し薄暗い軒並みは、これから夜更けまでの時間が、一番の賑わい時だ。
 通りはその名前の由来となった、要塞の半分崩れかけた低い壁に囲われていて、路の幅はごく狭い。乗合馬車などがすれ違えば、もしかしたら両側の軒を擦ってしまうほどだ。そんな小路の宵を分けて来訪した二人の僧に、道具屋の店主は何の遠慮も無く、冷たい貫くような鋭い目線を射掛けた。
「高潔な聖職者のかたがたが、まあ。卑しく商う当店にわざわざ、おはこびを頂くというから、ほんとうにどなたが、何のご用向きかとおもったら」
 精気棍やエルゴ=コギト炭といった一般的なものから、名前もその用途も見当がつかない怪しげな品が並んだ、深い海のような陳列台。そのガラスの水面に、店主はウンディーネにも劣らない妖しい艶美な微笑を浮かべた。
「ふぅん。まったく、あんたがやってくるとはねぇ」
 ゆったりした前身ごろに、斜めのタックが入った上着の裾は、何か動物の鋭い歯に噛み顰まれたようになっている。よく見ると、それは噛みつかれたものではなく、何かの薬品が生地との間に相互作用を起こしたものであることが判った。
「わかってるだろうけど、わたしはとっくに研究者としての生き方になんて、見切りをつけてるんだよ−まあとにかく、そのことはおたくの大将も、十分承知だと思ったけどね」
 まだ若いといってもいい女性にしては、ずいぶんさばけた物言いである。ほんの一瞬、隻手の目に懐かしがるような、面白がるような色が浮かんだ。しかしそれはじきに花が閉じるように彩をうしない、虚無の色をまとった温度のない視線が、裾の焼け焦げを指した。
「無理にそんな事を口にしても、やはり相変らずあなたは”スメイヤ・ナッサール博士”のようだな。その服、そのありさまで、客が不安がらないかね」
「日々の商品開発の、一つの側面といって欲しいね…そんなに目立つかな?」
「注意して見なければ、それほどには」
 それなら問題なし、という風にスメイヤは眉をそびやかした。
「それで、なにをお買い上げ頂けるのかな?この店は道具屋、ごらんの通り怪しい品々を商うところだよ?」
 隻手は店の品揃えを一瞥してにやりと笑うと、簡単なつくりの椅子に腰をかけた。背もたれにおおきく体重を預けると、椅子は乾いた音をたてて軋んで、無力な抗議の声をあげた。
「研究者としての生き方は放棄した、か。自分を騙すことのなんともたやすいものだ」
 椅子の抗議に被せるように、隻手は声を軋らせた。
「実験設備に火をかけて、自分の責任や弟子から逃げ出すことで、ひとまずのけじめをつけたとでもいうのかね?あなたの浅薄な倫理認識がたとえそうであっても、残された研究成果は破棄されることもなく、あそこに存在しているのだよ…ナッサール博士」
 浅薄なと指摘されて、スメイヤの眉が片方、ほんの一瞬痙攣するように震えた。空気が険悪な色を帯びる直前に、薄い目が割って入った。
「なにも、ことを荒立てるためにわざわざ訪問したわけではありません。違いますか?」 少し辛辣な口調で隻手にいってから、スメイヤに向かって軽く頭を下げる。
「どのようなご事情か詳しく存じませんが、ご不快なことで…申し訳御座いません」
「…わかってるよ」
 スメイヤは野外の調査で薄く陽焼けした顔を伏せて、隻手の空しい袖口を上目遣いに見ながら呟くようにいった。
「急ぎすぎた行動の結果が、あのざまだからね。光を抱き寄せるはずのあんたの腕にも、闇を掴ませてしまって…すまないとは思ってるよ」
 それに、なによりも。
 その年一番最初の厳しい寒波に何もかもが美しく凍てついた、あのつめたい雪の朝。スメイヤの背中に向かって永久に閉ざされた、アカデミーの小さな門扉の向こう、降りつむ雪に覆われていく鉄門の向こうで、両手をきつく固く握り合わせたまま立ち尽くしていたエンゲの真っ白い、小さな姿。
 去り際にほんの一瞬だけ振り向いた記憶の浅瀬に、その姿はまるで聖痕の様に焼きついて…灼きついて、二度とはなれようとはしなかった。一応は平穏といえる今の、変化の少ない日々の暮らしの中でも、何かのきっかけでそれを思い出すたびに。
 喉の奥底に深く氷柱を突っ込まれる苦痛に焼かれながら、スメイヤはエンゲの姿を求めて振り返ってしまった自分をいまでも、いつまでも呪うのだった。
「…わたしは右腕を失っただけだが、あなたは学問への理想と、大切な弟子の両方をいちどきになくした。そして得られたものは…」
 声もなく、じっと腹のあたりを抱くようにして苦悶に顔をゆがめるスメイヤに、隻手は容赦なく残酷で鮮やかな笑顔をむけた。そして残された左手で、カウンターの上に金色の小壜を、音も立てず静かに置いた。
「…得られたものは極上の悪夢…そしてここにも、その夢の続きが」
 スメイヤは奥歯を噛みしめたまま、小壜の中の金色の輝きと、隻手の右腕の空茫を、しばらくの間じっと見つめていた。唇をコトバが割って出たのは、随分時間がたってからのことだった。
「それは、たぶんエンゲの研究だね…ということは、わたしの研究成果というのは、ひょっとして…やっぱり」
「我々の息子は、今でも生かされている。アカデミーの最も奥まったところで」
 スメイヤはこれ以上内心の衝撃を悟られないように、表情のない眼差しで隻手を見返したが、かえってそれが動揺の大きさを白状してしまったという事には、気づいていなかった。
「…処分されるという事だったんだけどね…」
「餌の志願者にも、困らないそうだ。快楽を求める人の欲望には、どこでもどの時代でも、底が無いという事だろうな。それに悪夢は、覚めないからこそ悪夢なのだよ」
「覚めないからこそか…そのようだね」
 カウンターの向こうのスツールに、崩れるように力なく腰をおとして、スメイヤは殆ど消え入るような声で応えた。
「それで、まさかエンゲも…」
「エンゲリカ・シュルツェン教授。傍目にみれば、歩いている路はあなたと同じようだが、観ている景色は全く違うようだ。おそらく到達点にも、別の物を思っているんじゃないかな。いい娘じゃないかね?」
 スメイヤは隻手のコトバに、優しい表情で深く頷いてから、はっとしたような目をあげた。
「シュルツェン教授?」
「史上最短での正教授就任人事だそうだ。おめでとう、といったほうがいいかね?」
「そうか…」
 顔を伏せてかすかに瞼を震わせるスメイヤに、薄い目は静かにいった。
「お弟子さんを愛しておられたんですね」
 スメイヤはほんの微かに頷いた。何か熱いものが胸を満たして、喉に差し込まれた氷柱が少しだけ溶け始めたように思えた。
「その弟子が、少々危ない目に会いそうだと知れば、あなたもそこで商人を決め込んでいるわけにもいかなくなるだろう?」
(なんだって?)
 スメイヤはびくり、と肩を震わせた。
「スゥィンダインのものどもは、”早すぎた実験を巻き取る”ために、今行動するといってきている。それがあなたの、あの実験である事はもはや明白だと思うがね」
 俯きがちのまま、スメイヤは隻手の表情のない目を黙って、じっと見返した。本当に、そうなのだろうか。醜い失敗に終わったあの試みから、本当にまだ何かを得る事ができると、中央の者たちは考えているのだろうか。
 もしそうだとしたら、この男にも事態に関与する、一定の権利と責任があるだろう。虚ろを秘めた僧衣の袖も、それを主張しているようだった。
「しかも、随分と焦っているようですよ。五月の祭り…今年のカラン=マイでも、託宣はおりませんでしたからねぇ」
 薄い目は蜜が入った容器に指を触れて、ちらりとスメイヤを伺う。店主の目は苦悩で溢れていて、悲嘆がこちらに伝わってくるようだった。
「あの戦いからこちら、託宣が下しおかれたことなんて、一度でもあったのかい?」
「いえ、残念ですが、一度も。それだからこそ…」
 スメイヤの言葉に短く応えて、薄い目は頸をふった。幻獣を思うままに従わせる、強力な不可知の力。それが行使されたあの戦いのあと、五月前夜の丘の頂から託宣が下された事は、一度もなかった。それはそれで、面白い事象といえたが、祭祀を取り仕切る僧として勿論、そんな事を口にできるわけは無い。
「だからこそ、中央の者達…スゥィンダインの者どもは、焦っているということなのだろうよ」
「幻獣は制御できる。まるで恐ろしい神を操るように…まだそんな世迷言を信じてるっていうことかい?」
 蔑みをいっぱいに孕んだスメイヤのコトバに、薄い目は唇を歪ませて微かにわらった。
「嘗て隣国の王が試みたように。少なくともスゥィンダインではそのように考えているようです」
 一同の背後に、長く暗い沈黙がおちた。
「幻獣原質に、人間の魂を乗せる事に成功したという噂も伝わってくるくらいだ。事実だとすれば、幻獣が持っている”存在因子”とやらは、霊的なものと直結しているのだろう。あの実験の時に、そこまで理解が進んでいればな」
「よく勉強をしているようじゃないか」
「あなたの弟子の論文には、全て目を通すようにしている」
 隻手は控えめにいったが、実のところは生化学実験グループが発表した論文の全てに、彼はくまなく目を通していた。まるで決定的な答えがそこにあることを確信しているかのようだと、薄い目はことあるごとに半ば面白そうに指摘したものだった。
「スゥィンダインは、アカデミーのある人物を引き込もうとしているらしい」
 そういいながら隻手は、テーブルに厚い紙の束を放り出した。薄い目は、蔑んだような口元の表情を全く隠そうともしない。
「この書簡を見て、なにか心当たりになられることは、ありませんか?」
 手元で封筒を広げるスメイヤに、薄い目は促すようにいった。
「あなたが…よくご存知の方のように思いませんか?」
 文面を追うにつれて険しくなっていくスメイヤの表情に、隻手は探るような視線を向けた。
「書簡は”評議会議長殿”に宛てられたもの。どんな奇しき縁があったのか、本人の手元に届く前に、何故かこうしてわれわれの手の中にまいこんできてね…」
「不穏だね。最近の聖職者は、泥棒までやってのけるのかい?」
「盗人と坊主は、お互いこの世で最も古い職業といわなかったかね」
 ふん、と鼻をならして書簡の束を付き返し、スメイヤは隻手に背をむけた。
「わかった。あんた達にまた、協力する事にするよ。でもひとつだけ、いっておくよ」
 背中の表情だけではスメイヤがどんな想いに支配されているのか、全てを把握することは出来なかったが、声の調子から、激しい感情を押さえ込もうと努力しているのであろう事が、感じ取れた。
「決して、エンゲをスゥィンダインへの盾に使わないと、約束できるかい?」
「確実なお約束は出来かねますが、十分に努力いたしますよ」
「…手紙の中で言及されてる研究者は、確かにエンゲのことのようだね。今は、レノックス教授が後見人になってる」
「レノックス教授か。評議会でも実力者だが、ずいぶん特徴的な方のようだ」
 席をたつ二人の僧に向かって振り返り、スメイヤはカウンターに拳をついた。
「エンゲと話をしたいのなら、先ずは彼女を落とす事だね。むつかしいだろうけど」
 隻手はだまって唇を引き結ぶと、蜜の容器をカウンターの上で滑らせた。
「これは、お土産に置いていくよ。”日々の商品開発”とやらに、有効活用するといい」
「ああ、冗談ですよ…もちろん」
 顔色を変えるスメイヤをとりなすように、薄い目がいった。
「ですが、事態がいよいよ制御できなくなる前に、あなたは、あなたの息子さんの取り扱いについて、よくお考え頂かなくては。これは冗談ではなく、ねぇ」
「そうだね。それがわたしの、責任ってやつだから」
「そしてわたしの責任でもある。…お邪魔をしたな、”ナッサール博士”」
「リィンには、気をつけるんだね」
 戸口を潜って、喧騒を孕んだ暗がりの中に出て行く隻手の背中に、スメイヤは追いかけるようにコトバをかけた。
「彼女は−強烈だよ!」
 隻手は黙って振り返ると、無表情のまま何もいわずに、軽く左手を振ってみせた。




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