昼間の強い陽射しに焼かれた石畳の道は、夕刻とともに通りを過ぎていく風に優しく撫でられて、ようやくひといきをついていた。通りを両側から見下ろす工房や商店では、そろそろ戸口や看板を照らすランプに、灯火を入れ始めている。
 職人街と呼ばれるこの通りは、ファル=カルク市街の中でも最初に作られた、最も古い街並みたちだった。そして小さな噴水を中心に建設されたこの小路は、自らの文明の重みを支えられずに崩壊した前世代の建造物を解体して、その建材を元に作られたと伝えられていた。
 注意深い目が見れば、通りに敷き詰められた敷石や、犇くように建てられた工房の外壁に、彫刻の断片や複雑に修飾されたレリーフ、そして今ではもう読むすべさえない、消えかかった落書きの微かな名残を見つけることが出来ただろう。
 昼間は土産物を見繕う旅行者や、雑貨を求める近郊の者でにぎわった職人の通りも、いまから先の時間にはまた、これまでとは異なった表情を見せる。そんな職人街の外れ、流木を断ち割って利用した古い看板を掲げた、こじんまりした工房の前でアカリは足をとめた。
「バナッハ親方、いるー?」
 扉を半分ほど開いて中をうかがいながら、暗がりに向かって声をかける。間口が狭く、奥行きの深い店内にはこの時刻になったというのにアカリも灯っていない。ヒトの気配は戸口に伝わってはこなかった。尚も数回、店主の名を呼ばわりながら、彼女は店の奥に入っていった。
(あーあ、また開けっ放し。無用心だなー)
 工房は刃物全般を取り扱うようで、店内には小さな鏃から巨大なクレイモア、パイクの類までが並べたてられ、暗い店内で鈍く輝いている。殆ど手探りのようにして、長槍の柄を避けながら奥に進んでいったとき、大きな悪態が数回、聞こえてきた。
「おーい、親方ー。お客さんだよー」
 アカリは、小さなランプが一つだけ灯った工房の作業場を、ひょいっと覗き込んだ。重い音がして、鉄敷の上に大ぶりの鉄鎚が置かれるのが、微かにみえた。厚手の作業衣を着た枯れ木のような老人が、険しい顔でこちらを振り向く。
「なんじゃ、客じゃと?」
 なんだ、この態度は!笑い出しそうになるのを辛うじて堪えて、アカリは帽子を脱いで奥に進んだ。
「そ、お客。わたしだよ、親方」
「ふん、お前さんかいな。気ぃつけんかい、もう少しで叩き出すところじゃったわ」
 いきなり、実に物騒な物言いだった。
 老バナッハの工房は、仕事の出来栄えではこの界隈で誰の追随も許さなかったが、同時に偏屈具合も評判の店だ。多分、少し前に気に入らない客でもやってきたのだろう…。鉄敷の脇にはまだ造りかけの、見事な金細工を施した美しい髪留めが投げ出されていた。見るからに特注品である。どうやら不機嫌の元凶はこれのようだ…。
「お願いしてた鏃と、コクチを受け取りにきたよ。来週から研修だから、ね」
「おう!そう、そうじゃったわい。久しぶりに燃える仕事をさせてもろうてるで」
 職人はよっこらしょと掛け声をかけて立ち上がると、仕事場の奥から革の袋と、研ぎなおされたばかりの小刀の刀身を持って、もどってきた。
「カブラヤというんか?見本をいくつか造ってみたんじゃがな。こんな奇妙な鏃を打ち出すのは、わっしとて初めてのことじゃわい」
 店主は鹿の皮をなめして作った袋から、鋼鉄の鏃を掌の中にふりだした。まるで宝石でも扱うように、丁寧にその内の一つを指に摘み上げる。
「どうじゃ、試しに射てみるか?」
「うん」
 アカリは老職人から鏃を受け取ると、手早く矢の先に装着した。目の前に垂直にかざし、にっこりと頷く。
「いつものことだけど、おみごと」
「おうよ!」バナッハは嬉しさで目を細めながら頷くと、的の準備をはじめた。
 小さな瓜が、三十歩ほど離れた店の奥の暗がりにぶら下げられて、不規則に顫動している。どうやら何処からか、外気が流れ込んできているようだ。試射場の空間は、いつもは天窓から光をとり、ランプで明るく照らされているのだが、今は暗闇の中に静まり返っていた。
「これは、どうせ使わんのじゃろうな」
 バナッハは広口の壜を戸棚から取り出して、気のなさそうな雰囲気でいった。鈍い緑色に光る苔がその中に入っている。軍隊では弓兵たちが鏃にこれを塗布して、夜間の戦闘で初射の着弾位置を測るのだが、狩人たちは勿論そんなものに目もくれない。
 アカリは小さく頸をふって、彩り彩りの糸で装飾して漆をかけた剛の禦弦を、薬指で軽く弾いた。三枚羽の矢を番え、標的の向こう側を射抜くように弓を引きしぼっていくと、弦がコオロギのような声を立てて緊張し、矢を送り出すための力を蓄えはじめるのが解った。
 弓手に向かって、静かに時間が流れ込んでくる。
 そして前触れも無く、鋭い音を放って矢が弦を離れていった。
 白い矢羽が闇に吸い込まれ、遠くで的が弾ける水っぽい音。と同時に、短く硬い衝撃音が届いてくる。刃を立てた鏑矢は回転しながら夜を裂き、目標を破砕したあとで背後の厚板にまっすぐ突き立っていた。
 バナッハは片手を挙げてアカリを制すると、軽い足取りで闇の奥に消えていった。暫くして、矢を携えて戻ってきた顔は、満足そうに皺くちゃになっていた。真っ白な短髪を覆った頭巾を脱いで、そっと鏃にそえる。
「的は粉々になっておったわ。それに矢を引き抜くにも、ひと苦労したわい。何か、捩じ込まれるように突き刺さっておったが…」
「この矢羽がね」
 アカリは、老職人の手にある三枚の矢羽に触れながらいった。
「飛んでいく矢を、回転させるんだって。なんかエンゲが難しいことをいってたけど、実は、よくわかんなかった」
「それにしても、大したもんじゃわい」
 脱いだ頭巾で鏃を拭い、その刃に指を這わせながら、バナッハは満足げに頷いた。
「これだけの力で捻りこまれても、零れひとつ起しとらんわ」
「わたしの腕前の事じゃないのか」
 肩を透かされたようにアカリは一瞬、たじろいだ。老職人は実に不満そうな彼女の様子を見て、面白そうに肩を揺すりながら、高い笑い声をあげた。
「…エンゲとやらかい、お前さんの大事な連れじゃったな。わっしごときがいうまでもないわ。そのおなごなら、この腕前に惚れなおしてくれるじゃろうからな」
 柔らかい上腕を笑いながら掴んでくる、老バナッハから身をよじって逃げながら、そのコトバに、アカリは少しココロを暖かくする。
(そう、わたしには、あなただけだよ、エンゲ)
 彼女は鏃が入った袋と、研ぎなおされたコクチを受け取って、料金を支払うために財布を取り出した。老バナッハは代金を受取ながら、珍しくはっきりしないコトバを、もごもごと口にした。
「−この小刀も、随分使い込まれてきたのう。もう研ぎも、限界かもしれんわ」
 老職人は、アカリの手にあるコクチの刃に指を滑らせながらいった。
「そこで、の。同じように砂鉄から起こして、油じゃのうて水で焼入れしたサクスを作ってみたわい。みてくれるか?」
 頷くアカリに、にんまりと笑い返すと、バナッハは奥から一振りのサクスを持ち出してきた。ニホムの伝統を模した白檀の鞘から引き出した小刀は、刃に精妙な綾をまとって、暗闇のなかで自ら光を放つかに見えた。指を沿わせると、刃に向かってすっと引き寄せられるようだ。
「わ、なにこれ!」
 バナッハは、アカリから小刀を受け取ると、硬そうな親指の腹に鼻の脂をつけて、刃にそっと滑らせた。
「みてみぃ。曇り一つ、つくこともないじゃろう」
 作業衣の袖で軽く刃を拭い、切っ先を鞘に丁寧に滑り込ませながら、職人は顔に刻まれた年輪をより深くした。
「みようみまねで打ったもんじゃけどな。どんなもんじゃ?」
 驚きに見開かれたアカリの顔を面白そうに見ながら、老バナッハはこいつの代金はいらんわいと付け加えた。
「お前さんには、ほんまに贔屓にしてもろうとるからな。爺からの懸想文とでもおもうてくれ」
「これは、凄いけど…まだわたしには、使いこなせそうにないなー」
 ちょっと悔しそうに、にへへっとわらう。
「一応、研いでくれたんでしょ?わたしのコクチ。いまはこれでいいよ」
 そういって、小刀を鞘に滑りこませる。パチンとサックを固定して弓を背中に担い、さっと背筋を伸ばすと、そこには真新しい革冑の胸を誇らしく反らせた、ちゃんとした狩人が立っていた。
「このサクスは…もっと腕があがったら、貰いにくるね」
「ふん。面白い奴じゃのう。それもよかろうかい。で、鏃はどうする?隠れ家とやらに届けてやってもええぞ」
「狩人の隠れ家は、誰にも教えないもんなんだよ。今は試しうちの、これだけで十分だから」
 彼女は鏃が納まった皮袋を、目の前でちゃらんと鳴らしてみせた。
「じゃわたし、これで行くね」
「気ぃつけてな。サクスは…いつになっても、必ずとりに…こら、聞いとるんか!」
 手を振りながら街の灯火の下に走っていくアカリを、バナッハはもう一度嬉しそうに舌打ちをして、見送った。


 狩人の隠れ家にたどり着いた時には、夜も随分深くなっていた。水銀を張ったように、冷たく静まりかえった湖を見下ろす、黒い森の中。獣道さえ通っていない奥まったところに、その小屋は目立たないように背景に溶け込んでいる。柱にも壁にも、そして屋根にも念入りな擬装が施されていて、自然界には殆ど存在しない直線を、慎重に覆い隠していた。
 一人前の狩人なら誰でも持っている、狩猟用の隠れ家である。歩いてきた道に足跡が無いか、下生えを踏み倒してはいないか、また石苔などを不用意に擦り落としていないかを最後にもう一度確認して、アカリは周囲に注意をはらいながら小屋の鍵を開けた。
 ここには冬に訪れてから、半年ぶりになる。扉は小さな音を立てて開き、そんなに広くない部屋の全てが入り口から見渡せた。暖炉には冬に焼べたクヌギの枝が白い燃えさしを残していて、まだほんの仄かに、脂のような香りが漂っている。糸くずを貼り付けて封印した戸棚の中には、幾つかの弓が整頓されて、主人の要求にいつでも応じられる体制を整えているはずだ。
 彼女は少しの間戸口に立って室内を検分していたが、やがて状況に満足したのか、巡らせた細いロープの罠を外して扉を後ろ手に閉じた。張りつめた緊張が解けて、ふっと短い溜息が口をつく。
 藁をしっかりと敷き詰めてシーツを掛けただけの簡単な寝台の上に、アカリは荷物を置いてお尻をおとした。これから二週間ほど、この近くにある岩場−いや、むしろ荒地というべき場所で、生き残りのための研修にあたる事になる。行動は熟練の上級狩人によって陰から監視されているので、不正行為は許されない。とにかく所定の期間を生き抜いて、期日までに規定の地点に到達する。実に簡潔な訓練だった。
 しかし訓練といっても、誰かが積極的に自分の経験値を分け与え、教え導いてくれるわけではない。過酷な状況設定の中で、与えられた課題をクリアすればよし、幻獣に襲われて命を落とせばそれまでだった。ルールは一つだけ、”どんな状況でも、幻獣を殺してはならない”だけだ。
 監視する上級狩人は、あくまで公正さを確保するために見守っているのであって、受験者を手助けするためにいるわけではない。こうして考えると、男性の狩人に多く見られる一種シニカルな、それでいてどこか遊び人風の立ち居振舞いも、なんとなく納得できそうな気がするのだった。
 アカリは暖炉に火を入れ、お茶のためのお湯を沸かしながら、荷物の中から幾枚かの紙片を持ち出した。エンゲの手元から拝借してきた、古い、また新しいスケッチ。眠そうな、怒っている、笑っている自分。彼女はそれらをベッドの枕もとにピンで留めると、照れくさそうにひとりで少しだけ笑った。
 帽子を脱いで髪を解き、咄嗟の行動に支障が無い程度に、緩く編みなおす。革冑はまだ着たままで戸棚から幾つかの弓を取り出し、それぞれの調子を確かめる。今回の状況設定は岩場での生き残り訓練だから…だったらこれかな。
 彼女は巻いて筒にしたギリスーツと共に、渋い風合いの二所藤の弓を選ぶと、慎重に弦を引いて、弓幹を撓らせた。檀を使って美しくこしらえたそれは、厳しい温度変化にも耐えて、しなやかな力強い感触を手に伝えてくる。アカリは弦を指で擦って口元を緩めると、弓をそっと枕もとに立てかけた。
 敷物もしいていない剥き出しの床板にお尻をおとし、荷物の中から地図を取り出して広げると、訓練に指定された場所の地形を確認する。そこは見事なまでの荒地だ。
 頭に色がついたピンを留めていきながら、戦術を練る。この荒地にも、今ごろはヘザーが咲いているだろう。訓練が終わったらお土産に、そのうちのいくつかを摘み取って帰ることにしようか。ジンチョウゲのように小粒で可憐な花が好きなエンゲ…。ヘザーの綺麗な紫にも、きっと目を細めてくれるだろう。
 地図上で大まかな状況確認を済ませると、彼女は膝の上でギリスーツを広げた。漁師が使う網のような素材の、大きなポンチョのような擬装服に、細く裂いた布片や麻紐を結び付けていく。布片は状況にあわせて色や形状を変えていくのだが、今回は岩場や荒地という事も有り、大きめの灰褐色を選んだ。結びつける布片は勿論、少ない方がいい。多すぎると水を吸ったときに重くなって身動きがとりにくいし、逆に少しの動きで目立ってしまったりするからだ。
 一通りの作業を終え、スーツを目の前に大きく広げて検分する。結びつけた布片も、駆け出しだった頃に比べると随分と少なくなっている。はじめのころは、深い森の中でギリスーツが絡まって、擬装どころか何度も危ない目にあったものだった…。
 訓練想定を考えると、遭遇する可能性が高いのはケンタウロスか、あるいはミノタウロス。おそらくミノタウロスだろう。この状況設定は数年前、彼女がギルドに入りたての頃、先輩狩人が重症を負って結果的に命を失ったものと同じだった。精気に不足して正気を失い、猛り立った男のミノタウロス達に退路を絶たれ、取り囲まれて撲殺されてしまったのだ。アカリは深い衝撃を受けたが、不思議と涙は全くでなかった。
 狩人であるということはこういうことなのだと、そのとき彼女は確信した。勿論今でも、そうは思っている。でも今では−エンゲと会ってからは、幻獣に襲われて命を落とすような、そんな最期を迎える可能性を考える事が震えるほど恐ろしくなっていた。
 不安な思いを振り払うように、彼女はエンゲと抱き合っているときのことを、思い浮かべた。唇に、頬に、耳たぶに感じるキスの感じや、背中やおなかに優しく押しつけられる、乳房の柔らかな愛撫…。
 いつのまにか自分でも気付かないうちに、革冑の上からおっぱいをまさぐっていた。もちろん厚い革を通してなんの感触も伝わってはこなかったが、胸を触っているという事実だけで、気持ちが高まってくる。革冑の留め金を外して脱ぎ去ると、シャツと下着を通して乳首がぷっくりと、かたく突き上げているのがわかる。
(あ…もう、こんなになってる−)
 自然と掌がおっぱいを弄り、指がいやらしく動いて揉み始める。乳首を親指と中指で摘むたびに、甘い電流が腋から頭に流れて、思わず大きな声が出てしまいそうだ。
 もうこれ以上、我慢が出来ない。アカリは革ブーツをとり、シャツもパンツも脱いで下着だけの姿になると、ベッドにころん、と横になった。クッションを抱いて胸に押し付けながら、両手を太腿の内側にそっと持っていく。 既に恥ずかしいお汁が、すっかり下着を通して染み出してきている。
 下着は明るい桜色で、内股を覆う部分には大きく薔薇の花が開き、下腹部には蝶が刺繍されていた。そしてまるで刺繍の花弁から蜜が零れるように、愛液がとろとろと溢れ出している。下着はもちろん、昨夜エンゲに貸してもらったものだ。エンゲも何回か脚を通したであろう薄い生地に、自分のあそこが恥ずかしく濡れたまま包まれていると思うと、情けないことに、一層屈折した気分になってくる。
(はぁぅっ…そこ、そこは…ゆるしてぇ…)
 まるでエンゲの舌先のように、細い指が微妙に動いてスリットをなぞり、唇が啄むように、陰核をきゅっとつまむ。躰のおくからどんどん溢れてくる熱いものは、内腿を伝ってシーツにまで流れてきた。愛液にぐっしょり濡れた指で、今度はおっぱいも嬲りはじめる。もう一方の指は、薄い生地とともに陰裂のなかに割り込ませていく。
(あぁ、もうー、好きだよぅ、エンゲ…)
 いま、たった今ここにいて欲しい!
 混濁した妄想の中では、いつのまにかエンゲと自分の立場が逆転していた。
(あああ、アカリぃ…そこ、だめ…よわいのぉ)
(…じゃあ、ここは?)
 指で唇を弄り、舌を愛撫する。いまは、自分はアカリに甘く優しく責られている、白金のエンゲなのだ…。
(あ…もう、もう…)
 躰のいちばん奥にまで指をすすめながら、アカリは空いた手でつよくクッションを抱きしめた。きっちりと張り詰めたシーツがくしゃくしゃになるまで、全身を快楽に躍らせながら、しかし声は押し殺したような、高く短い鼻声を洩らしただけだった。
 あたたかな甘い波がひろがって、躰を包み込んでくる。クッションの中に顔を埋めて目を閉じていると、まるで柔らかい胸の中に抱かれているようだ。
 エンゲの研究室を思わせる、お湯が沸いた音が遠くできこえる。アカリは留めようのない情念の流れからいやいやながらに、我に返った。




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