アカデミーの中心部を占める会議堂は、堅牢な石組みの二つの尖塔と、その中央に奥行きのある身廊を構えた、壮麗な建造物だった。梟の頭を持った裸身の神々と、かれらに絡みつくハシバミのレリーフが、霞のように儚くファザードの周囲を飾る。それぞれ時代も様式も異なる控え壁や飛び梁は、会議堂が長い時間のうちに、とても慎重に積み重ねられた建築である事を主張していた。
 とりわけ目をひくのは、陽に白く映えた外壁の石積みが、足元では荒々しくごつごつと、そして上層へ視線を向けるにしたがって、美しく滑らかな仕上げとなる繊細な建築様式だった。それはパラッツォ・ドラギオ・イカルディと呼ばれていて、この地の錯綜した歴史の瞬きを微かに、そして遠く想い起こさせた。
 尖塔の切り立った頂きに据えられた避雷針は、朝の陽をうけて、細く長い影で広場にゆっくりと時を刻んでいく。その先端は、今はゆるく続く坂の下にあるアカデミーの正面門の方を指していた。遠くにみえる小さな古い門をくぐって出勤してくる人影は、まだ疎らだ。
(まだかしらね…エンゲ)
 早朝の気配を僅かに残す会議堂の玄関で、リィン・レノックス教授は背中で軽く壁際を押して、ストッキングに包まれた脚を組みなおした。もちろん約束までには少し時間があるのだが、余裕を大きくみて待ち合わせに臨む癖が、どうしても抜けないのだった。
 古風なフィボナッチ巻きにまとめた亜麻色の髪には、普段より更に念入りに、精密な櫛の目が通っている。そして白く美しい胸元をさらに鮮やかに装飾したブラウスに、躰にぴったりと合った濃い色のスーツ。どこにも権威や地位を主張するような徴を身につけていない。しかし存在感は圧倒的で、彼女がそこに立っているだけで、通りかかる若い聴講生達が緊張で一瞬、歩調を乱すのがわかった。
 こちらを伺うような、おどおどした彼らの視線に晒されて、リィンのココロに黒い嫌悪が送り込こまれてくる。そのたびに上品なめがねの向こうに表情を隠し、卑屈な笑顔をいくつかやり過ごして、彼女はなかなかやってこないエンゲに、懇願の吐息を洩らした。
「−学部長…!」
 磨きたてられた靴先にうつる尖塔の翳に目をおとして、もう一度ちいさな溜息をついたとき、細い声が遠くから聞こえた。ぱっと顔をあげたリィンは、広場のずっと向こうから花壇をまわり、危なっかしい格好で走ってくるエンゲを見つけて、嬉しさで思わず小さく声をあげそうになった。
「はぁっ…おはようございます、レノックス先生」
「おはよう、エンゲ…シュルツェン博士。とても、凄い事になっていますね」
 足元に纏いついて、膝のうえまで捲れあがったスカートを慌てて直して、エンゲはふうっと大きく息をついた。このようにぴっちりした装いでは、走ってくるのは大変だっただろう。そんな彼女がほほえましくて、リィンはにっこりと笑いかけた。花がひらいたような薄桃いろの頬が、暖かくゆるむ。危険なほど強大な法力を秘めた濃い碧の瞳が、ごく薄く灰色を入れためがねの向こうで、しっとりと光をはなっていた。
「申し訳ありません」ぺこり、とエンゲは頭をさげた。口元にかかる白金の髪を揺らして、まだ息は小さくはずんでいる。
「その…家をでるのが少し遅れました…」
(ああ、なにいってるのー、わたし。あたりまえすぎ)
「大丈夫ですよ」リィンはエンゲの動揺を意に介していない風で、彼女の肩にそっと手を触れた。その瞬間。
 焼いた針の先にさわったような鋭い−そして強烈な刺激がいきなり、指先から肩口へ、そして首筋にむかって入り込んできた。思いもよらない感覚に、うなじの毛がざわっと逆立つのが自分でもわかって、リィンはココロの中で顔をこわばらせた。
「…時間には十分、間に合っていますから…」
 どうにか平静を保ってそういいながら、彼女は指先から間違えようもなく伝わってくる妙な感じに、コトバを途切れさせた。この感じは…なにか霊気の残り滓…燃え滓みたいだけれど…?
 いつまでも肩から離れようとしない指先に向けられた怪訝そうな視線に気付いて、リィンは慌ててぱっと躰をひいた。少々不自然かも、と思いながら、取り繕うように話題を変える。
「今日の会議ではまず、あなたの正教授就任式が執り行われます。そのあとは、幻獣生態学会の当日手順について、ごく簡単な打ち合わせ。今回はドラギオンからの参加もありますからね…」
 素直に頷く様子にほっとして、リィンは思わず唇を綻ばせる。エンゲの背中に慎重に、こんどはなるべく自然に手を添えながら、彼女は会議堂へと促した。
「ずいぶん久しぶりの国際会議になりますね、今年の幻獣学会は。あなたにとっても、懐かしい顔があるでしょう?」
「はい!それは…本当に」
 論敵たちとの再会を純粋に期待するエンゲの明るい笑顔に、切ない羨望をこめてリィンは微笑みをかえした。そして…やはり、気のせいではなさそうだ。背中から躰の中心に向けて、鋭く集中された強い霊気が抜けていったであろう痕跡がある。どうやら極端に邪悪なものではなさそうな印象だが、結論を導く為にはもっと詳しく確かめる必要があった。
(いったい、どこで何をしてきたの?エンゲ…)
「あの、どうか…なさいましたか、学部長」
 リィンは何でもない、としか応えなかったが、美しい眉がほんの微かに顰められて、エンゲをさらに不安にさせた。
「学会の前には、教授就任講演もあります。両方とも準備の方は、すすんでいますね?」
 一瞬の躊躇のあと、エンゲは少しこわばった表情で頷いた。
「あと、もう少しで終わります。週末には完成しますから、大丈夫です」
 そうですか、と短く応えて、リィンはめがねの向こうに微笑を忍ばせた。
(相変わらず…とても正直ね)
 彫刻を施した分厚い扉の前で立ち止まると、リィンはエンゲの佇まいを丁寧に検分した。そして彼女の胸元のリボンを少しだけ直しながら、会議が終わったあとで、講演論文をよませてもらえないかと遠慮がちに口にした。
「…それに、わたしがいま構想中の研究計画についても、あなたの意見を伺いたいのですが。もし迷惑でなければ…」
「そんな!迷惑だなんて…とんでもありません」
 エンゲはそれ以上コトバを思いつけずに、頸を横にふった。リィンの申し出はなんだか−とても唐突だったが、反面ありがたい、とも思う。草稿があともう少しで仕上がるこのときに、誰かに自分の最終的な考えを聞いて欲しかったのだ。本当はアカリに話したかったのだが−アカリはいつでも、簡単には頷かないシビアな聞き手だったのだ−彼女にも決められたギルドの職務がある。それに自分の今の精神状態だと、論旨を説明するよりも、えっちのために多くの時間を割いてしまいそうだ。
 それにしても、自分がレノックス教授の研究計画に、なにか意見することができるなんて…こんな日がくるとは、思ってもいなかった。それがたとえ外交辞令だったとしても。
 恩師がこの事を知ったら、なんていうだろう。喜んでくれるだろうか?それとも…。少なくともアカリの機嫌を損ねるのは、間違いなさそうだということに気づいて、エンゲは後ろめたいような、なんともいえない気持ちを、コトバに出来なかった返答とともに飲み込んだ。
 リィンに導かれるようにして会議堂の厚い扉をくぐると、そこは外部の物音を一切断ち落とした、痛いほどの静寂をうちに孕んだ空間だった。ここにくるのは、随分久しぶりだ。建物の中心を成すゆったりした長方形の身廊は、天井部が複雑な組み合わせの梁で支えられた、高いアーチ状になっている。見上げると、まるで石と漆喰の集積がぎしぎしと聞こえない音をたてて、建物が空間をどんどん食い潰しているかのようだった。
 議場の一番奥まったところには丸い高窓が設けられ、そこから粗い粒子のような光が差し込んでいる。その下に掲げられた長い花崗岩の一枚板には、学術協会のモットー、”我れら仮説を捏造せず”の文字が刻み付けられていて、議場に入れば嫌でも、いちばん最初に目に入るのだった。
(仮説を捏造せず、か…)
 ぼんやりとした意識の表面を、突然硬い音が打った。振り返ると扉が両開きに大きく開いて、薄明かりを背景にした影絵のような人の形が、揺れていた。やがてざわめきを室内に反響させながら、アカデミー評議会のメンバーが寄り集まって扉を潜ってくる。顔ぶれの最後には、陰で長老と揶揄される、最高位の教授たちの姿も続いた。それぞれの職位に応じて装いはまちまちだったが、全員が同じように手にしているのは、ハンドルに老獪な梟が彫刻された純銀のステッキ。共和国学術協会の最高峰を構成するひと握りだけに許された、大きな権威の証だった。リィンも三年前からその一員だったが、その棒切れを手にした姿を一度も見せたことは無かった。
 権威そのものを楽しみ、それを隠そうともしない集団を前にしてさっそく緊張しはじめているエンゲを包むように、リィンは軽く手を広げて席へと導いた。全員が着席するのを待って、エンゲも下座に席をとる。リィンは椅子の背に躰をすっかり預けた寛いだ姿勢で、テーブルの上にではなく、優雅に組んだ膝の上にファイルを広げた。
 会議の開催を告げる木槌の音とともに今日の主要議題が説明され、最初に、エンゲの正教授就任が報告された。今期に教授就任の対象となるのは、エンゲ一人だけだったので、この場は事実上ただ一人だけのために用意されたセレモニーとなった。指名されて演台へあゆみを進めながら、彼女は何度か、お歴々のほうを横目で盗み見た。途中で分岐幻獣分類学部の主任教授から射込まれた鋭い視線に気づいて、エンゲは思わず、不自然に目をそらせてしまった。
 鷲のような鼻と鷹のような目をした、老鳥の風貌の男は、あからさまな挑戦の視線を隠そうともしない。エンゲが所属する発生幻獣学・生化学実験グループは、設立の当初から多くの論敵を抱えていたが、この分岐分類学者達がそのなかで最も厄介なものたちといえた。彼らは誰にも理解できない難解で膨大な学術用語を駆使し、それと同じくらいの頻度で聞いた事もないような罵詈雑言や暴言を吐き散らすものたちだった。
「…かねてよりの推薦に従い、貴殿をハイランディ共和国学術アカデミーの幻獣学正教授に任命することが、大臣ならびに、学術協会選定委員の全員一致によって承認された…」
 形式と伝統に則って、韻律を踏んだ長文の任命書が朗読される。委員全員の一致とそこには謳われていたが、勿論それは形式的な文言である。会議は紛糾したのに違いなかった。
「…この処遇に対する貴殿の態度表明を、お願い申し上げる」
「ここに謹んでお受け致します」これもまた形式に従った返答とともに、エンゲは深く膝を折った挨拶を返した。
 黒い布地に豪華な金の刺繍を施した長いマントに身をくるませて、厳粛な表情で威儀を正した評議会議長は、高いところから見下すように、膝を折り腰をかがめるエンゲの隅々までを値踏みした。細身のスーツに落ち着いたデザインのブラウス、きっちりと左右対称に結ばれたリボン。その佇まいに満足したのか、議長は黙って頷くと銀のステッキでエンゲの両肩に触れ、儀礼的に祝福を与えた。
 就任のセレモニーは、まったく淡々と終わってしまった。宿敵でさえもどうやらこの場は穏便に済ませる事に決めていたようで、胸の前で軽く腕組みをしたまま、半眼の視線を壇上に向けているだけだ。それでも時おり視線が彷徨うのは、強烈な威圧感を放散するリィンの気配に晒され、中てられたからかもしれない。
 正式の任命証と、就任を記念する銀の指輪を受け取って、エンゲは拍子抜けしたように演台を後にした。席にもどると、椅子の背もたれにあずける体重を大きくして、ふうっと息をつく。躰を包み込むような、革張りの豪華な椅子。程よくクッションも効いていて、思わず遠い世界に連れて行かれそうだ…。
 もしかして数分間、意識がとんでいたかもしれない。議事はいつのまにか、幻獣生態学会の開催手続きに移っていた。
「…今回の幻獣生態学会は、重要な催しになるでしょう。通商路が再開した事が、幸いしましたね」
 低く小さい委員の声が、だんだん近くなってくる。ばつの悪い状況をごまかすように、エンゲは手元の書類のページをもぞもぞと弄んだ。
「国境警備にあたっている部隊の方で、通商路の開通に向けて尽力があったという事だ。少なくとも公式には、そういわれています」
 通商路の開通という言葉に、はっと顔をあげた視線の先で、議長が顎鬚の下で組んだ手を解いて頷くのがみえた。
「イカル・ドラギオからも、招待に応じるとの返答が届いているが…その辺りはどうなのかね?」
「師団司令部に、確認してあります。師団の広報からは、特別に関与せず、という実に簡単な返答を頂きましたよ。そうですね、レノックス教授」
「公式な回答は、その通りです」
 めがね越しに発言者をちらりと見て、リィンはごく短く応える。そしてそれ以上は何も付け加えずに、手元の紙にメモの続きを書きつけ始めた。遠い上座に席を構えたリィンの手元が気になって、エンゲは体重を預けていた椅子の背もたれから心持ち躰を離した。
「国防軍は不干渉。それは騙りではないだろう。現にドラギオンから、行商人や吟遊詩人の類がすでにこの町にも流れ込んでいるとか」
「本当に?そうなのでしょうか」
 議長の言葉に、何人かの委員が不安と希望が混じりあった表情で顔を見合わせた。
「街のうわさにすぎないが、市民の耳目は敏感だ。事実と考えていい。このぶんだと、公式な交渉が再開する前に、市にはドラギオンの商品が並ぶだろう」
 ドラギオン。その名のもつ厭わしい記憶と同時に、甘く懐かしい想い出が、そっと発音する舌の先によみがえってくる。イカル・ドラギオで開催された前回の学会から、一度も会っていない顔が幾つも思い出される。中には会うたびに論難してくる強力な論敵もいて、多少複雑な気持ちだったが、今となっては誰もが懐かしかった。
 評議委員たちはそれぞれに、頷きを交わした。表情には一様に安堵が浮かんでいる。つい先ごろまでの恐るべき交戦国、そこから研究者を中心に百名以上の参加者が予定されている中で、国防軍の大盤振る舞いは、ありがたい誤算といえた。
 議長は満足そうに報告書を閉じ、テーブルを囲む全員を見渡した。
「そういうことであれば、セレモニーの場には一応、国防軍の関係者も招待しておかねばならないだろうな。異議がおありの委員は?」
 どこからも異議の声は無かった。無言のままで先を促す委員達の微妙な反応を捉えて、議長は書記に閉会の合図を送った。
「よろしい。では学会の開催当日まであと僅かな時間しかないが、諸君、準備は粛々と進めていただきたい」
 木槌が打たれ、形式どおりに閉会が宣せられた。ざわめきを纏いながら通り過ぎていく委員達をやり過ごしながら、エンゲはリィンが戸口までやってくるのを待っていた。
「ありがとうございました、レノックス先生」
 大きな書類綴じを抱えてやってきたリィンに、会釈する。
「いろいろ…お力添えをいただきました。また今日は、お時間もさいていただいて…」
 エンゲのぎこちない儀礼の挨拶に、リィンは書類の束を抱えなおしてにっこりと頷くと、自分の研究棟のほうに促した。学部長の研究室は、練練された大きな窓を北側にとった、ゆったりしたものだった。続き部屋と応接間がある研究室。いつ訪れても変わらずに、美しく整頓され、居心地よく整えられた居住まいに、エンゲは思わず恥ずかしさと羨望が混じった甘い溜息を漏らした。曖昧な光に満たされた静かな部屋の中は、落ち着いたマホガニーとチークの調度で統一されて、書棚にもテーブルにも、どんな細かな塵ひとつも無かった。少しだけ開かれた窓際では、カーテンが微妙な曲線をつくって揺れている。この場所ではきっと、空間を満たす空気でさえ、気品で磨かれているのに違いないと、エンゲはおもった。
 ソファに膝を揃えて座り、エンゲは薦められたお茶を慎ましく一口した。そして草稿にだまって目をとおすリィンをカップの縁から、気づかれないよう控えめに伺う。北側の窓から揺らめくようにさしこんでくる弱い光の中で、その姿は不思議な非現実をまとって見える。儚い、というのではない。しかしまた、強固な現実を帯びているのでもない。なんとも不思議な印象だった。まるで自分の研究−存在因子仮説の、確率波の揺らぎにたゆとうみたいだ…。
 存在因子仮説は、幻獣がこの世界で存在する際の、”存在しやすさの度合い”を説明するために、エンゲが導入した理論だった。幻獣の生態を語る際に重要なものの一つである変成現象と雌雄の分化が仮説の出発点だったが、完成した学問にまで成熟していない理論が持つ共通の危うさを、この研究もまたいくつも内包していた。
「幻獣が、この世界で実体として存在しやすくなるということ、それに幻獣が消滅するということ。これらは何を意味しているのでしょうね」
 リィンは尋ねるでもなく、静かに、呟くようにそう口にした。存在しやすさとはなにか。そして変成するということは、どういうことなのだろうか。より良質の精気を得る事が出来る形質に指向することで、”この世界で”より生き残りやすくなるためなのか?
 もしもそうだとすると、その利点はどこにあるのだろうか。そしてなんのために?これらはいまだに、解決の糸口さえ見つけられずに、とり残されている問題である。また、幻獣に対する体系だった観察がはじめられてすでに二百年以上が経過していたが、幻獣同士の交接で仔が儲けられた事例は、未だに観察されていなかった。幼生のように見える幻獣は、本質的にそのような形態として、はじめから存在するのだ。これはネオテニーなどとは根本的に足場を異にする現象であり、幻獣出現以前の系統発生学を根本から揺さぶった事象だった。
 そもそも幻獣の雌雄の分化は生殖のためではなく、人間の男女から精気を効率的に得るための、派生的な形態ではないのか。そして問題を更に複雑にしているのが、幻獣と人間との間に仔が儲けられたという事実だった。幻獣原質は、彼らの霊的な要素を運ぶ乗り物のようなものだということは、判明している。にもかかわらずもしかすると、それは幻獣の霊的要素がこの世界で唯一の寄り代とするものでは、ないのかもしれない…。
「正しい問い立てをしているのかどうか、たしかにまだ疑問はありますが、わたしはなぜ、今この時代に幻獣たちが存在しているのか、その事をもっと深く考えたいとおもっています」
 いかがでしょうか、というような真剣な瞳のいろ。そして礼儀のベールに慎ましく包まれた議論への情熱をリィンは黙って聞いていたが、やがて静かな表情でいった。
「かつて、ナッサール博士もよくそう仰っていましたね…」
 不意打ちのように師の名前を耳にして、エンゲはかちん、と小さな音をたててソーサーにカップをおろした。
「今日のあなたをみたら、おそらく喜んでくれた事でしょう」
 エンゲは黙って頷いた。我慢しようとしても、その名前を聞いただけで目の奥がじんわりとしてくる。
「ナッサール先生とは、よく国境の峠やその近くの森にまで、調査に出かけました。もう随分以前のことになります」
 そういって、ティ・カップを静かにテーブルに戻す。
「五月前夜の丘を踏査するのが先生の夢でしたが、ご在任中はとうとう許可を頂けずで。でも、最近になってようやく認可が…」
 そこまでいって、はっとした。見る間にリィンの表情が硬く、冷たくこわばっていくのが判った。
「”五月前夜の丘”ですか?」
 リィンはそのコトバを身震いしながら、憂いを眉に潜ませて小さく低く発音した。しまった、と思ったが、口から出てしまったコトバはもう、回収することはできない。
「シュルツェン教授−あなたは”まだ”あの遺構を、諦めていなかったのですね…」
 氷点下の声の鋭い切っ先が、咽喉元に突きつけられたように思えて、エンゲは指を固く握り合わせた。きゅっと噛んだリィンのふっくらした唇が、見る間に白く変色していく。淡い灰色のめがねの向こうで、なんとか制御されている力がすぐにも剥き出しにされそうで、エンゲは小さく身体をすくませた。
「あのような穢れた場所に…スゥィンダインの祭祀庁がどのように粉飾したとしても、あの場所に眠っているものの悍ましさを、あなたは十分理解しているでしょう?」
 感情の昂ぶりの余韻を微かにのこして、リィンは低い声でいったが、自分でも、コトバはそこで微妙に震えるのがわかった。
「そこに、いったのですね?」
 エンゲは黙って頷くしかなかった。ごくり、と飲み込んだ唾が、のろのろと引っかかりながら、喉を伝い落ちていった。
「それも、つい最近ですね?」
(やはり、あの狩人の娘に連れられていったの?)
 エンゲが、狩人と呼ばれる危険を生業とする娘と親交を深めている事には、なんとなく気がついていた。危険な幻獣が跋扈する地で、研究者が単独で行なうフィールドワークには、確かに限界がある。各地を遍歴し、幻獣たちと接する機会が多い戦士や狩人たちから得られる情報は、非常に価値が高いものもあるだろう。
 しかし、今回エンゲが調査に訪れた場所は、その潜在的危険性おいて、他所を比較の対象としなかった。あの丘の中心には、決定的な不可知に対する短くも雄雄しい闘争の末に、科学が−物理学がついに膝を屈した、遠い時代の記憶が息を潜めて埋没している。前世代の終わり−幻獣が一斉に現れた時代の終幕の日々に。かつて科学者と呼ばれた、最後の人々が行なった破滅的な実験の名残が、今でもそこで不吉な夢を見ているのだ。それは捕獲したり遺体として回収した幻獣の解剖や、切除した組織の生検を初めとする徹底的に学術的な研究だったといわれている。しかしそこからもたらされた結果は、恐るべきものだった。
 今も残る破壊の醜い痕跡や、保存された文書が語るところでは、研究所や研究員全体には地の精霊と呼ばれる存在から、大きな破滅の報酬が与えられた。嘗て丘の上に建設されていた様々な施設は、そこで働く研究員や技術者とともに、ことごとく圧壊させられたという。加えられた力がどのような種類のものだったのかは、今となっては知りようも無い。頑なに守られている「幻獣に対しては、遺体であっても損壊してはならない」という禁忌が、破滅の恐怖を今に伝えるだけだった。幻獣生態学という学問分野が、いままで全て外挿的な研究アプローチを取ってきたのは、その為だったのだ。
 リィンが率いる生化学実験グループの研究は、そのなかでひときわ大胆な実験アプローチを展開していたが、その彼女ですら越えようとしなかった−越えられなかった最後の限界が、丘の中心に横たわる遺構だったのだ。
 ある意味で、エンゲがその場所に魅かれるのは、宿命なのかもしれない。それだからこそ、エンゲの学術的好奇心がたとえどのように抗議しようと、あの穢れ果てた場所に彼女を近づけてはならないのだ。
 それなのに!
 なんという名前だっただろうか。エンゲをそのような第一級の危険地帯に誘った狩人の娘に、リィンは激しい怒りを感じた。あの黒い髪に緑の瞳の娘だ。そう…アカリという、かわった名前の娘だ…。
「シュルツェン教授。すみませんが、服をぬいでいただけますか?」
「えっ?」
 まったく予想していなかったコトバに、エンゲは絶句した。
「先ほどあなたの肩に触れたときに、何か霊気の残滓のようなものを感じました。気のせいであって欲しいと願っていましたが…”背徳者の墳墓”にいったということであれば、何もせずに済ませるわけにもいきません。失礼とは思いますが、すこし調べさせてください…」
 しかたない。リィンがいうのであれば、それは確かなのだ。やはり、五月前夜の丘に向かうのに、あまりにも準備が足りなかったのかもしれない。そういえばあの嫌な感じ。リィンはきっと、あのことをいっているのだ。それならアカリは?アカリは大丈夫なのだろうか…。
 上着を脱いでリボンもはずしながら、エンゲは躊躇うようにいった。
「あの、スカートも、ですか?」
「上半身だけで結構です。ブラウスも脱いで…」
 薄いブラウスを脱ごうとして、エンゲは胸元に押印された小さなキスマークのことをようやく思い出した。
(あ、いま前を向いたら…)
 エンゲはなるべく自然に、脱いだブラウスと両腕で胸元を覆ったが、どうやらそれは余計な心配だったようだ。リィンの関心事−心配事−は主に背中のほうにあるらしく、こちらを向くようにとはいわなかった。
 下着のホックが背中ではずされ、開放されてほっとしたおっぱいが、たぷんとゆれる。肩紐をはずして、リィンは仄かな薔薇色の下着をするりと抜き取り、テーブルの上で丁寧にたたんだ。
 そしてめがねをはずす。強大な法力を抑制し、拘束する力から解き放たれて、リィンの瞳が明るく輝きだす。するとよりいっそうはっきりと、エンゲの躰に、その背中に向かって送り込まれてきた物が見えはじめた。
 滑らかな白い背中に鼻先をつけるようにして、リィンはゆっくりと霊気の残滓を探っていく。その吐息がかすかにかかるようで、エンゲは気づかれないように、そっとイキを飲んだ。
 まるで気位が高いケモノのようなその気配は、アカリの繊細な、じらすような愛撫を思い出させた。胸を覆った掌のしたで、乳首が虚しく硬さを増していくのを感じながら、エンゲは勝手に反応する躰を制御下に置くために、全ての神経を集中させた。
「緊張しないで、シュルツェン教授。躰から力を抜いて…霊気を読み取れないから」
 だまって頷いて、アカリのことを、その指先を思い出さないようにとしたが、それはかえって肩に力を入る結果になった。
(ああ、余計に変に思われるかも)
 そう思って肩越しに目だけで振り返って、リィンを伺おうとしたとき。腰に柔らかな両腕がそっと回されて、控えめに抱き寄せられた。
「学部長?」
 背中に押しつけられる頬に困惑して今度こそ振り返ると、リィンが両膝をついてじっとうずくまっているのが判った。自分を抱きしめる腕も心なしか震えているようにおもえて、エンゲはそれ以上何もいえずに、黙るしかなかった。
「お願いですから、シュルツェン教授…絶対に約束してください。もう二度と、あのような場所に近づかないと」
 長い沈黙の後で、リィンの小さな声が聞こえた。閉じられた瞼の、睫の先はなんだか、濡れているようだった。リィンをこのように悲しませた罪悪感で、エンゲは自分でも驚くほど激しく狼狽したが、ようやくコトバにできたのはごく当たり前の決り文句だった。
「もうしわけ…ありません、学部長…」
 ようやくそれだけを口にして、恐る恐るリィンの腕にふれる。彼女はその手を、黙って握ってきた。そのてのひらの感触に、その優しい暖かさに詫びながらも、どういうわけかエンゲはどうしても、二度とあの丘には近づかないと、声に出して誓約することはできなかった。




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