カーテンの向こうが、乳のようにぼんやりと白い。窓の外ではじんちょうげの葉がゆらゆらと揺れて、枕を伝わって聞こえる心臓の音と律動するように、白い光の中に影を躍らせている。
 自分の胸に鼻先をうずめて寝息を立てているアカリを、エンゲはしばらくの間じっと見つめていた。どんな夢を見ているのか、ときどき口許がぴくぴくっと動いて、そのたびにおっぱいの先に微妙な感じが伝わってくる。
(なんか、あかちゃんみたいねぇ)
 エンゲは暫くのあいだアカリの寝顔を楽しんでいたが、ベッドサイドに置かれた時計の長針がコチリ、とたてた音で、強制的に実時間に呼び戻された。そろそろ身支度をはじめるべき時間だ。さぼりたいなあ、というぼんやりした想念が、膜のようになって意識の表面を覆っている。今日だけはさぼってしまって、一日アカリを愛でて過ごしたい。
 しかし、そういうわけにもいかない。
 月が明けたらすぐに始まる幻獣生態学会には、共和国各地のみならず、近隣の国からも多数の研究者たちが訪れる事になっている。戦役後初の、大きな国際会議だった。ポスターセッションを含めると、今回は数百に及ぶ研究成果が発表され、様々な情報が交換される事になる。純粋な学術成果を公開する場でもあるのと同時に、それはアカデミーにとっても、大切なセレモニーの場になることだろう。
 今日から月末まで、教授就任講演から学会での発表準備も含めて、考えただけでうんざりするような膨大な実務が、日程表の中で消化されるのをまっている。エンゲはあらゆる意志の力を動員して、優しく絡みつくアカリの腕の中から、そっと躰を引き出した。
 まだ半分以上寝ぼけたまま、軽くシャワーを浴びた後、エンゲはなるべく音を立てないように静かに寝室にもどった。前面にレースがあしらわれた下着をクローゼットから選んで、足をとおす。
(こんな感じでどうかな、アカリ)
 枕を抱いているアカリに、エンゲは声もなく話しかけた。
 姿身の前でほっそりした上半身をひねって、腰からお尻のラインを確認する。学部会に着ていくには少しはしゃぎすぎかな、と思われるブラウスを選んだところで、ぎくりと手が止まった。鏡の前で、そっと胸元に指を這わせる。
(わわっ!…これは、まずいよぅ)
 おっぱいの少し上辺りに、形も鮮やかにキスマークがついていた。こんな胸の開いたブラウスでは、これは隠しようもない。
(もー、ひょっとして、わざとねぇ)
 ちょっと困った笑顔をアカリに向けると、彼女は最初のものよりもずっと保守的なブラウスとスーツを、選びなおした。
(じゃ、いってくるね、アカリ)
 準備を済ませると、まだ良く眠っているアカリの頬にそっとふれる。
(革鎧は、ドレッサーの脇。ご飯は…)
 伝言と、それより長い慈しみのコトバを記したメモを、時計の下に挟む。
 革鎧は昨夜のうちに水気をふきとり、クリームをつかって丹念に手を入れておいた。その甲斐があって、鎧は本来の柔軟と強靭をとり戻したようで、濡れそぼってげんなりと疲れた昨夜までの様子が、うそのようだった。
 隅々まで状態を検分して、エンゲは満足そうに微笑んだ。
(しっかり、アカリを守ってあげてね)
 本当はさらに丈夫なプレートメイルを、彼女には用意してあげたかった。帝王竜の攻撃でさえ排除できるような、圧倒的な装甲防御でアカリを守りたい。しかし、狩人である彼女には、そのような重装備が逆効果であることもまた、十分に理解していた。重すぎる盾は矛先を鈍らせるし、それに何にもまして、彼女には狩人の誇りがあるのだ。
 でも、昨日の彼女は。
 いつもの自信も、狩人としての誇りも失って、何かに怯えてすがり付いてくる女の子に過ぎなかった。アカリを怖がらせたもの。それはひょっとすると、プレートメイルや強靭な盾で防ぐことが出来るものでは、ないのかもしれない。
 鎧や盾が守れないなら。それなら。
 剥き出しの冷たい肩にシーツをそっとかけて、エンゲは寝室の扉を静かに閉じた。




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