午後に入る直前の、乾いた透明な空気のなか。俯いて作業をすすめるエンゲの白い頬には、睫が濃い翳を落としていて、その華のような美しさにアカリは頬杖をついたまま、ながいこと魅入っていた。
「うーーん、綺麗ねぇ」
 思わず。声に出していってしまう。
「そうね。夏も、もうじきだから」
 エンゲは風の匂いを嗅ぐように顔を上げて、強くなってきた日差しに目を細めた。共和国でもこの地方は、真夏といっても耐えられないような暑さになることはめったに無かったが、それでも白昼ともなれば、少し動いただけで汗が胸の間を流れていく。袖を捲くった木綿のシャツだけの格好で、前世代の遺構と格闘するエンゲの胸は汗でびっしょりと濡れて、湿った生地を通して肌の色も透けて見えるようだった。
 アカリは、大幅に勘違いしているエンゲの返答に、微笑んで応えた。
(すごく綺麗だよ、エンゲ…)
 陽に透ける白金の髪も、凍てたシリウスの瞳も。そして陶器のように整った頬の線も。実験や研究以外には抜群にとろいエンゲも、こうしてみると最高に鋭いオンナに見える。白い頬は土と石の埃に汚れていたが、それは一見すると冷たい印象を与える彼女の表情に、軽い暖かな風を運んでくれていた。
 何回かに分けて丹念に石屑や土砂を取り除くと、遺構の内側に降りていくための狭い通路が露出する。初夏の暖かい空気が目に見えない静かな流れを作って、暗くひんやりした穴の入り口で温度境界層を形成するのが感じられた。エンゲは折り畳み式のスコップを持って、その中に躰を滑り込ませていった。
 引き締まった腰からお尻の線をくねらせて、恐れを知らない人のように遺構の奥に入り込んでいくエンゲの姿を追いながら、アカリは腰に下がったクィーバーから、矢を一本抜き取った。鏃は、塗りの鏑矢。矢羽は本黒の二枚羽で、飛翔とともに鋭い音を立てて、接近してくる幻獣たちに警告を与えることを目的としていた。発掘現場の周囲には、厳重にめぐらされた結界石の囲いがあるし、またこの開けた場所で幻獣たちの接近を見逃す事は殆どありえないように思える。しかしアカリは、矢を弓に軽く番える姿勢で、油断無く空気の気配を嗅いだ。
 遠くの空に、空気と戯れる鳥たちが見える。風車の塔の繊細な三枚の刃物が、ゆるい風を受けて、ゆっくりと回っていた。アカリは感覚の網を、風車の回転に合わせるように静かに周囲に巡らせていった。
 しばらく探査を続けてから、アカリはほんの少しだけ緊張を緩めた。どんなに慎重に気配を探っても、幻獣たちのかすかな息遣いすら、周りに感じ取る事は出来ない。それでも彼女は、躰を空気に溶け込ませるように自分の気配を絶ち、丘の隅々に、さらにその向こうに続く森の中まで、狩人の感覚を送り込んでいった。そしてそいつは、全く何の前触れも無く、網を突き破ってアカリのすぐ目の前に突入してきた。
 一瞬、なにが起きたのか理解できなかった。
 視界の中に突然出現したそいつは、反応する時間も与えずにアカリを下生えに押し倒した。しっとりと濡れている草地では、身体が滑って瞬間的な対応が出来ない。一方、相手の方はそのようなことは全く気にしていなかった。水飴のように柔らかく、滑らかに動く何本もの手が、アカリの全身を弄っていた。視界が奪われ、両手の指先から腋の下へ、胸から腰の括れへ。両方の胸が、お尻が同時に、一度に愛撫されている。
(あ、うそ…まだ、服着たままなのに)
 直接乳首を触られる感じに、アカリは思わず背中を仰け反らせた。ぴったりした狩人の着衣と肌の間に、器用にも腕はどんどん差し入れられてくる。それはちょっと湿って、ぬるぬるした滑りがあって−
(しまった!男の幻獣?)
 男のスライムかもしれない。
 迂闊にも、装備一式をつめたエンゲの荷物は、天幕のところに置いてきたままだ。囮球も飽和壜も、全てそこに収まっている。これは、まずい!理性ではそう思うのだが−
 おっぱいを両方一度に揉まれながら、更に同時に乳首も舐めたてられ、強く吸い上げられる。下のほうではお尻への愛撫が続いており、指先のような舌先のようなものが、肛門の窄まりを潜って中へ深く潜り込んでくる。その人外の快楽…
(あああ。お尻の穴まで気持ちいいなんて)
 直腸の中をうねりながら、奥まで入り込んでくる指/舌は、いつのまにか太さを増しているようだ。ゆっくりした往復運動に回転まで加わって、恥ずかしい音が大きく響いてしまう。そしてとうとう、汗に濡れた腿をわり、肉の棒が意に反して濡れはじめた蜜壷を目指して這い進んできた。
「あーー!そこはいや!そこは…」
(そこは、エンゲの…)
 そう叫ぼうとした時、何かが爆ぜるような乾いた音と共に、閃光が空中に広がった。同時に、体中に絡みつき、舐めまわしていた手や舌や腕が、あっという間に引き下がる。お尻の中深くに入り込んでいた指や舌が一瞬のうちに引き抜かれる時の快感で、アカリはか細い泣き声を漏らした。
「なにやってるのよ!もう!」
 涙やら粘液やらで霞んだ視界の中で、装備が詰まった袋をもって、転がるようにして駆け寄ってくるエンゲの、影のような姿がみえた。スライムは−というと、程よい距離をおいて投げられた囮球−人間の女性の匂いと強烈な精気を、一気の反応で放出する囮の装備−に、大きな毬のような姿勢で絡み付いている。こうなると、囮球が持っている誘引効果で当分は、恍惚状態が続くことになる。
 アカリはごしごしと服の袖口で顔をこすりながら、やっと上体を起こした。しかし先ほどの、イキきれなかった快楽の余韻で、躰の奥は熱く、そして重く疼いたままだった。
「大丈夫?ぢゃなさそう」
 なんとなくエンゲは、面白くなかった。スライムなんかにえっちされそうになって、しかもあんなに、恥ずかしい声を上げるなんて!しかし、ぺたんと座り込んで−もしかして、腰が抜けてるのかも−シャツの袖で顔を拭き続けているアカリを見ると、そんな気持ちも急速に薄れてきた。
「もう、べたべた…」
 エンゲに手渡された布でごしごしと顔を拭いながら、アカリは泣き声で、かぼそく抗議した。
「自慢の結界は、どうしたのよう、もぉ…」
「…ごめん…」
 スライムに蹴散らされたようにも思える結界石の列を見ながら、エンゲは首をかしげた。いつかのように、少しばかり広すぎたかもしれない石の間隙をついて侵入してきたのなら、まだ理解は出来る。しかしこのように、結界そのものが打ち壊されたとしか思えない事態は、全く想定外だった。
 とりあえず、結界の形が元の楕円形からどれだけ変移したかを、出来るだけ正確に測定する事にして、エンゲは荷物の中から巻尺を持ち出した。一つ一つの結界石の擾乱度合いを測定して、変動幅と変動率を求める。研究室に戻ったら、いままで試みた様々な結界形状からの対数値をとって、最終的に危険率が一番小さい結界の形を再び決定することになるだろう。情報がもっと集まれば、結界の形と突破の困難度合いの間に、はっきりした相関関係を導くことが出来るかもしれない。しかしそれでも、相関即ち因果関係とはいえないところが、微妙なところといえる。
 一通りの測定が終わるころには、アカリの様子もおちついたのか、いつのまにか躰をぬぐう気配も消えた。
 …あれ?いや−それどころか、彼女そのものの気配が、消えていた。振り返ろうとしたそのとき、なんともいえない嫌な、冷たくて重い空気が、背中を通してお腹の中にまで入り込んでくるのを感じて、エンゲは反射的に躰を硬くした。手指の先が冷たくなって、細かく震えはじめる。アカリの事が心配で、すぐにも確かめたかったが、躰はピン止めされたようになって、全く動こうとはしなかった。
 なんか、吐きそう…。
 荒い呼吸を数回繰り返すうちに、悪寒はやってきた時と同じように、突然消えてなくなった。ぞっとするような感覚を引き摺って、測定器具を放り出し、弾かれるように後ろを振り返る。
「アカリっ?」
 そこではアカリが、草地の上に片膝をついた膝射ちの姿勢で、弓を引いていた。口割りに引き分けたまま、無限の過去から続いたかのような、会の状況で。視線の先と思えるところを追っても、どこにも目標らしきものは見えない。開けた丘陵の先には、風が微かに渡っているだけだった。
 エンゲが再びアカリの手元に目を戻したのと同時に、彼女は静かにイキをはきながら弓を戻した。目じりからこめかみにかけて、刷毛で掃いたように少し赤らんでいて、極度の緊張が痕になって残っている。
「気のせい?…だったかも…」
 そう呟く彼女が番えた矢には、幻獣に警告を与えるための鏑矢ではなく、音も無く目標に到達して確実に行動能力を奪うための、征矢が使われていた。
「…何がいたの?」
 そっと、コトバをかけてみる。アカリは目を閉じてうつむいた姿勢のまま、ゆっくり頸を振った。
「わかんない。何かに、強烈に見られてる気がした…こんなこと、いままでに一度もなかった」
 彼女はそういなり、ぶるるっと背中を震わせて、エンゲのシャツの袖にしがみついた。白昼の陽光に照らされているにもかかわらず、震え始めたこの躰だけが、冷え冷えとした空気に取り巻かれたようだった。エンゲはアカリの小さな躰を抱きながら、ふと放置したままの囮球のことを思い出した。
(そうだ…さっきのスライム…)
 囮球が役に立たなくなるまで、あと一時間あまり。とにかく、濃密な結界を蹴散らして進入してくるほどのスライムである。誘引効果が切れて幻獣が我に返るまえに、安全なところまで引き下がらないと。そう考えながら幻獣のほうをそっと伺ったとき、エンゲの目が驚愕に大きく見開かれた。
 幻獣はそこにいなかった。存在していた痕跡さえなかった。ほんの数分前まで精気にとらわれたスライムがいた場所には、ばらばらになった囮球の残骸が散らばっているだけだった。
「そんな…こと」
 エンゲはガクガクする膝を押さえつけながら、這うようにして残骸のそばに近づいてみる。
「エンゲぇ…」
 背中から聞こえるアカリの頼りなげな声に、手を振って大丈夫と合図をおくり、彼女はそっと囮球の残骸をつまみあげた。割れたわけではない。破片ひとつひとつの破断面は、まるで高熱に炙られ、急速に冷却されたようなアモルファス状に固まっていた。どうやったら、こんな壊れ方が出来るんだろう。破壊過程が全く推定できなかった。
「ね、エンゲ。お願い、今日はもう、帰ろ?なんかとても、怖い感じだよ…」
 アカリに指摘されるまでもなく、エンゲもそう感じていた。ようやく得た発掘の機会ではあったが、いまの装備でこれ以上ここに留まることは出来ないように思える。彼女は囮球の破片を手早く袋に詰めると、アカリに向かって頷いた。

 森の中の道を出来る限り急いで行く間に、晴れていた空は急速に雲に覆われ始めた。遠くの空では雷雲が不吉に盛り上がっているようで、時折、低い雷鳴が帯電した空気を渡ってくる。結構強い雨になるかもしれない。そう思った矢先、大きな最初の一粒が、エンゲの鼻の頭に落ちてきた。
「あー、降ってきたよ、アカリ」
「え?」
 深く幕を垂れた空から、雨が固まりのようになって降り始めていた。濃淡を分けた雲の集団が、頭上にどんどん集結してくるような錯覚に陥りそうだ。
「はやく、はやく!」
 エンゲは−彼女にしてはものすごく手早く荷をおろして、そこから天幕を引っ張り出した。慌てて、大きく広げたその下に、二人は荷物と一緒に転がり込むように飛び込んだ。それと殆ど同時に、凄い雨音が頭上のなめし皮を打ちはじめる。
「すごい!太鼓の中って、こんななのかな」
「え?なんていったの?」
 大声で交わす会話すら、満足に聞こえない。いったん降り始めると雨の密度は幾何級数的に増大して、ほとんどあっという間に、あたりは濃い飛沫に包まれていく。二人は諦めたように顔を見合わせると、黙ったまま天幕の外の白い世界に目を向けた。
 静かだ。
 ものすごい雨の中、お互いの声も聞こえないのに、なぜか静かだと思う。こんなに外界から切り離された世界で、ふたりだけ。エンゲはいつの間にか、小さくて白いアカリの横顔に、見入っていた。
 暫くすると−いや、本当はずいぶん時間が過ぎていたのかもしれないが−雨は少し小降りになったようだ。いまはもう、地面から立ち上る靄のほうが、雨の飛沫よりも濃いほどだった。アカリは濃い靄の幕を通してその彼方にあるものを見通すように、片膝をたて、そこに肘をついた姿勢でじっとしたまま。天幕の縁からはときおり、そこにたまった雨水がまとまって、流れ落ちてくる。
 あたりは森と静まって、いつのまにか小さくなった雨粒が木々の葉を叩く、軽い不規則な音だけが聞こえていた。世界が戻ってきたのを自覚したとたんに、なんとなく、沈黙が重くなってくる。アカリは膝を崩してエンゲに向き直った。
「ね、お茶でも入れようか…って、なにをしてるの?」
 はっとして躰をおこしたエンゲの手元から、小さなスケッチブックが取り落とされて、紙片が麻布を引いた地面に散らばった。あわてて拾い集めようとする彼女よりも早く、アカリはその数枚を手にとった。
 画面は描きかけのアカリのスケッチで、いっぱいに埋められていた。紙片の中には随分古いものもあって、長い時間の間に描き溜められたものだという事が判った。
「…寝顔なんかもある。いつの間に描いたの?」
「ごめん−ひょっとして、ちょっと怒ってる?」
 アカリは頸をふると、エンゲの躰をきゅっと抱いた。自分でも良くわからないうちに、黒い睫の間からいきなり、ぽろぽろと涙が零れてくる。堰を切った感情は太い流れになって、止めようもなくアカリを呑み込んでいった。
「今日は、ごめんね!スライムに不意を突かれて、それで帰るなんて言い出して…次はもっとしっかりするから…ごめんね」
「アカリ…」
 本当に愛しい、と思った。細かく震える肩も、揺れる髪も。なにが彼女を怖がらせたのか判らなかったが、その恐怖のいくらかでも自分が共有して、引き取りたかった。
 暫くのあいだじっと抱き合ったあと、エンゲは黒い髪の中に顔を埋めて、その甘く柔らかい香りをかぎながらいった。
「なんで結界、壊れちゃったのかな」
「やっぱ、丘の呪い…のせいだったり」
 そう呟きながらアカリは、エンゲの腕の中で、また小さく躰を縮こまらせた。その冷たい躰を、エンゲはそっと、少し力を入れて抱きしめる。
(ああ…こんな時になんか卑怯で嫌だけど。いやだけど)
 アカリを抱き続けて、それでも迷いながら彼女は小さな声で、囁くようにいった。飲み込んだ唾のおとが、ひょっとしたら聞こえたかもしれない。
「ね、アカリ。今夜は、その…」
「…泊めて…エンゲのとこに。怖くて、独りの家に帰れないよ」
 アカリの長い髪を何度も何度も愛撫しながら、エンゲは繰り返し囁いた。
「うん、泊まりに来て。もう、ずっとうちにいて−わたしと一緒に…」




次へ

トップへ