カチリ、と一斉に踵を鳴らす音とともにささげられる、輝く剣の林立に軽く挨拶をおくりながら、将星たちの列が通り過ぎていく。いずれも黒い軍服に赤と黄色の刺繍、肩章の徴はちがえたふた振りの剣の上に一文字の「9」。年齢はまだ、誰も歳がいかない。先頭を行く一番年配の者でも、五十代も半ばに達していないだろう。
 誰も口元を緩めず、コトバが交わされることもない。しかし、石畳を叩く長靴の乾いた音も、ベルトに吊るされた豪剣の波も、確固な結束を無言のままに明示していた。
 共和国の最も危険な国境を守る、第九師団。
 「黒い9」と呼ばれて畏怖され、同時に誰からも敬遠される者たちの、戦闘指揮官の一団だった。大股で歩み寄る軍団司令部の豪奢な石造りの玄関は、国旗や軍旗で華やかに飾り立てられて、さながら祭りの賑わいを呈していた。
「まったく、にぎやかなものだ」
 深く傾いた陽の光が、美しい浮き彫りが施された司令部の壁を照らしはじめている。
 ホールまで長く続く最初の石段に足をかけて、黒ずくめの師団長、クアト・クリューゲル少将は、風の中に踊る旗の奔流を見上げた。「眩しいくらいだな」
 目深く被った軍帽の中に褐色の短髪を押し込み、厳粛に刈り込まれた、堅そうな口髯を蓄えている。がっしりとした長身の、広く張った大外套の両肩には、師団長を示す赤と金の肩章がゆれていた。
「相変らずの黒ずくめか、クアト」
 石段を上り詰めたホールの門口では、白亜を背にして、煌びやかな勲章とモザイクのように美しく連なる略章を胸に帯びた、初老の軍人が出迎えていた。
「ウレディク閣下。ご無沙汰しております」
「久しいな、クリューゲル将軍」
 踵をあわせるクアトに、ウレディクは明るく、柔らかく微笑んだ。
「このたびは、ゲライント師団の再編…」
「形式ばった挨拶は、やめてくれないか」
 礼儀に沿ったクアトの外交辞令を、手を振ってやんわりと遮る。そういいながらも嬉しさを隠し切れずに、老師団長は硬そうな歯をのぞかせた。そして祝賀の催しに美しく着飾った、軍団司令部の建物を、少し後ろめたそうに振り仰ぐ。
「再編されるや、いきなり国境に派遣されていった貴官らにくらべれば、我々は恵まれておるよ」
「戦況には柔軟に対応する必要がありますので。特に和平の交渉も近い、ここのところは」
「かたいかたい」
 ウレディクは掌をひらひらと振りながら、クアトの背中に腕をまわした。
「ヴェストファルも頑なだったが、お前はそれ以上かも知れんな」
 クアトは苦笑でそれに応じた。
「そういえば、奴の息子はどうしている?」
「奴。ヴェストファルの?」
「ほかに誰がおる。確か、貴官の部隊にあったはずだな。今日はきておるのかな」
「参じておりますよ。ずいぶん強硬に防戦されましたがね−中佐!」
 クアトの声に、大剣を帯びた若い大隊長が、大股で歩み寄った。凍てつくように青く、険しい目の色と同じ、冷たい青に輝く十字の勲章が一つだけ、襟元を飾っていた。
「ハルス・ヴェストファル中佐であります」
 中佐は背を伸ばし、踵を打ち合わせた、きちんとした敬礼とともに申告した。
「第九○一大隊を任せて頂いております」
「”最上の青を運ぶもの”か。ゲオルグはいい息子を得たようだな」
 ウレディクは軽い仕草で答礼し、ハルスの襟元に輝く十字の勲章に目を細めた。それは”青の中の青”と呼ばれる勲章で、国防軍にあっていかなる階級も問わずに、最高の武勲を上げたものだけに授与されるものだった。たとえ一兵卒であっても将軍に匹敵する尊敬を身に帯びる事ができ、その名誉に比例する責任の重さから、まるで重荷を背負うかのように、受勲者たちは”最上の青を運ぶもの”と呼ばれていた。
 しかし最上の青は同時に、血まみれの青でもあるのだ…。

「ゲライント師団の再編を祝賀し、乾杯をいたします」
 軍団司令官のもとに、久しぶりに三名の師団長がそろった。ホールを華麗に埋める師団旗、軍団旗。その中で、ようやく再編が成った第八師団「ゲライント」の師団旗が、誰からもはっきり見えるように、何よりも高く掲げられていた。尾を振りたてて誇示しながら飛び立とうとする竜を縫い取った、それは印象的なものだった。
 音楽は延々と続き、宴はいつ終わるとも知れない様相を見せ始めていた。テーブルを囲んで、小さなグループが幾つか構成されており、会話がとりどりの華を咲かせている。それはあるいは夏の休暇の話であったり、秋の狩猟の武勇伝だったが、お互いの礼儀の範疇で時を潰すには適切な内容だった。
「おい、ハルス!こっちに来て話さないか」
 ひときわ華やかな賑わいを見せているテーブルから、たかい嬌声があがった。第八師団の将校たち。色合いも華やかな、とりどりのドレスで着飾った女性たちのテーブル。その中には士官学校で競った旧知の顔も、幾つかあった。
「どうした。辺境勤務で婦人の扱い方をわすれたか」
「あら、あれが”堅い第九師団”の方?」
「そういえば、辺境では軍務の合間に幻獣を抱いて、憂さをはらすとか」
「まぁ!牝の幻獣を?」
「牝とは限りませんよ。歳のいかない牡も、という噂さえ」
「ああ、いやらしいわ!それで、どんな風に…その、なさるのかしら」
 いつのまにか関心は、幻獣との背徳的な交接の話題へと流れていった。ホールの中央では、ダンスもはじまったようだ。高級将校たちが、まだ命の美しさに輝いている花束のような婦人たちを腕に抱えて、音楽の流れに弄ばれるようにくるくると廻る。その催眠術のような光景をぼんやり眺めながら、ハルスはどうすれば礼を失うことも無くここを退去できるかと考えつづけていた。
 突然、肩に置かれた手に驚いて顔を向けると、そこにはグラスを手にしたクアトの苦笑があった。
「このような場には馴染み難いのかね、中佐」
 そういいながら手にした飲み物を薦める。ハルスは会釈してそれを受け取って、かしこまった。
「気を張る必要は無い。楽にするがいい」
 形だけすこし足元の位置を変えるふりをしながら、ハルスはこの場から撤収するための選択肢がどんどん少なくなっていくのを感じていた。将軍はハルスの微妙な表情には全くかまわず、飲み物を上品に口元に運んだ。
「ヴェストファル家とは、ずいぶん長い付き合いになる」
 広間の上座に掲げられた自軍の師団旗に…剣を掴んだ鎧の腕を縫い取った、”黒い9”の旗にグラスを捧げて、将軍は口髯を微笑の形に緩めた。
「中佐の祖父君…ヴィーナー・ヴェストファル閣下には、戦場で徹底的に鍛えられたものだよ」
 彼方に去ってしまった、儚い遠いものを追いかけるような目で、クアトは淡い薔薇色の液体を透かして、旗をじっとみつめていった。
「貴官の家系は−ヴェストファル家は、過去三世代に渡って共和国に忠誠を捧げ、常にその責任を果たしてきた」そして、暖かい、ともいえる視線をハルスに向ける。
「中佐にもまた間違いなく、その血が受け継がれているとみえるな」
(はい閣下。先祖代代に続く、地獄めぐりであります)
しかし自動的に口をついたコトバは、まったく別のものだった。
「光栄であります、閣下」
 ハルスはもう一度誰にも聞こえないように、そのコトバを口の中で繰り返した。

 馬車は夜の気だるい空気を分けて、ミュフリンク通りの石畳を踏み渡っていた。軍人の居宅が多く集まるこの閑静な一角は、市民の間では”参謀通り”の別名で呼ばれている。その静かな通りの外れにヴェストファル家の、暖かく慎ましい明かりがサンザシの葉陰に瞬いて見えた。
「この辺りで結構です。後は風にあたりながら帰ると致します」
 ハルスは、座席の脇に立てかけた長剣を手に取りながらいった。
「今宵は有意義なひとときでした。大変に啓蒙されました」
 ひと揺れして路肩に止まった馬車から足を下ろしながら、クアトに向かって軽く黙礼する。
「次回はぜひとも、我が家にて宴席を設けさせていただきたく存じます」
「そうだな」
 クアトは褐色の口ひげの下で目立たない微笑をうかべた。一介の中佐が将軍を招待とは少々無礼な言明だったが、不思議なことに憤りは覚えなかった。
「貴家のメイドは、群を抜いた美形と評判ではないか。楽しみなことだな」
「恐れ入ります」
「それが妻であれば、さらに喜ばしかったのだがな。ではお休み、中佐」
 背筋を伸ばして見送るハルスの前から、馬車はがたがたと音を立てながら遠ざかり−やがて見えなくなっていった。軽く息をつく。実に長い一日だった。夜の風は何処からか甘いアーモンドのような香りを運んできて、倦んだココロを少しだけ楽にしてくれたようだ。
 それでも、もう今夜は邸に戻るまで、どのような知った顔とも会いたくはなかった。もう外交は、一生分堪能した感じだ。そんなハルスの心象を悟ったように、暗い通りには人の姿は全く無く、甘い香りの向こうに邸の門扉が見えてくるまで、十分に独りの時間を堪能することが出来た。
 冷たい音を立てて、門扉は簡単に開いた。閂も掛けられてはいないようだ。
 敷地の中でハルスは、腰に吊るした長大な剣を−この時代にあっても、いまだにクレイモアと呼ばれているそれを−軽々と優雅に抜き放った。切っ先が弧を描きながら、夜の重い空気とともに心を覆った憂れいを切り開き、水盤のような月の面で艶かしくその光を纏った。
 凛と鍛え上げられ、研ぎ澄まされた強靭な両刃の直剣は、まるで水銀の雫を呼吸するよう。刀身からは微かな空気の揺らぎが沸き立っていた。その冷たい輝きが、ココロの奥に溜まってしまった澱を、焼き尽くしてくれるようだった。
(ふん)
 ふと気がついて、鼻をならす。飲酒した折の抜剣を、常より厳しく部下に対して戒める身ではあったが、今夜は…。疲れることが多すぎた。
 それに。
「やれやれですわね、旦那様」
 そら、やってきた。振り向きもせず、あわてる様子もなく剣を鞘に収める。
「部下の皆様には厳しく、ご自身には寛大であられること」
「その剣…力も、今はこのように鞘に納まっている。それで良しとしてくれ、マーシェンカ」
「剣即ち力ですか」
 マーシェンカと呼ばれた女性は、少し背伸びをするように腰に手をおいて、ハルスを見下ろした。まるで、小さな王のように。
 身長の差は首一つ分程。ハルスの胸あたりにやっと届くほどのマーシェンカだったが、見下ろされているのは確かにハルスの方だった。
 すこしゆったりとした黒いワンピースの上に真っ白なエプロンをつけているが、それがまるで戦闘服のように見える瞬間があることに、ハルスはひそかに−勝手に−面白がっていた。
「絡むな。それよりも、主を家にいれてくれないのか」
 まるで玄関に立ちふさがるように屹立したマーシェンカだったが、一瞬の間をおいて、にっこりと暖かい笑みを浮かべた。少し足を引いて、右手でエプロンの裾をつまんだ優雅なお辞儀。自ら輝くような銀色の髪の先が、ふわりと夜の中に広がる。
「お帰りなさいませ、旦那様」
 目を伏せた銀色の睫の先が、細かく震えているのがわかった。
「このたびもご無事のご帰還、お慶びを申し上げます」
 ハルスは黙ったままベルトから剣を外すと、気楽な動作でマーシェンカに預けた。男でもたじろぐだろう、巨大な重み。それにも全く動じた様子は無い彼女に、ハルスはにやりと笑うと大きく頷いた。
「お前の小言は、マーシェンカ」
 簡素なつくりのアプローチを大またで歩みわたり、扉の前で立ち止まる。
「まさに、生きている実感というやつだ」
 身の丈二人分の高さのある重厚な樫の扉を引き開け、ホールに足を踏み入れると、たくさんの燭蝋に照らしだされた金色の空間がひろがった。
 そこでは、過去三世代に渡って共和国に忠誠と義務を捧げた先祖の軍人たちの肖像が掲げられ、誰も彼もがハルスを威圧するような厳しい光を、目の奥に秘めていた。軍礼服に身を固め、夥しい徽章略章をきらめかせて、背筋を伸ばして剣に手をかける姿は、まさに洗練された軍人の見本のようである。ただ彼の父親、<烈鉄>ゲオルグの肖像だけは、他とはどこか違う印象で、少し疲れた微笑を口の端に浮かべているように見えた。
 額縁はどれも磨きたてられ、画布はまるで昨日描き上げられたような、色彩の輝きを保っていた。邸の中を見渡す。人の気配は、皆無だ。
「相変らず、使用人を雇わないのか」
「必要が御座いませんので」
 軍神への捧げ物をするように剣を掛鉄に据えて、マーシェンカはハルスの大外套を受け取った。
「先ほども俺が庭先で剣を抜くまで、なんの咎めも無かったが」
「侵入者であれば、わたしが引き裂いておりました」
 表情は穏やかなまま、先に行くハルスの後ろについて寝室に向かう。
「それに旦那様の気配は、百歩先でもわかりますから」
 こやつ、頼もしい奴め。戦場でこのような者が脇に居れば、いかにも心強いだろう。
「それならば主が帰ってきたのだ、出迎えに立つのが道理ではないか」
「旦那様の足音は、別のことをお考えのようでしたので」
 外套にブラシをかけ終え、クローゼットにしまうと、彼女はきちんと畳まれた部屋着を取り出した。
「さ、お召し替えを。旦那様……」
 寝室に戻って、マーシェンカは口をつぐんだ。予想できない事ではなかったが、ハルスはまだ、複雑に結ばれた軍礼服の煌びやかな飾紐と格闘していた。
「…苦戦中ですね…」
 彼女はハルスに代わって、混乱の度合いを増した紐を丁寧に解きながらいった。
「憎きゴルディアス奴が、ことさら複雑に結んだのだ」
「はいはい。ほら、解けましたから」
 マーシェンカは飾紐を手にとって、ハルスに背を向けた。
「今夜はお疲れでしょう?その−はやくお召し替えになって、お寝みくださいませね」
 そういいながらも、彼女は内腿のあたりをもじもじと擦りあわせていた。
「そうだな、今宵はいささか疲れた…」
 ハルスの応えに、マーシェンカはきゅっと胸をだいた。
 そう、旦那様。今夜は疲れてるんだから−もうちょっとだけなら、我慢できるから。
 マーシェンカは振り返り、軽くお辞儀をして−顔を上げようとしたとき、いきなりハルスに抱きすくめられた。そして深く、強く唇を奪われる。
「すまないな、マーシェンカ。少々酒の匂いもするだろうが、許してくれ」
「旦那様、はぁうぅぅ」
 マーシェンカは溶けるような目でハルスをみあげた。しっかりした仕立ての、厚い軍服の生地を通して、ハルスの鼓動が伝わってくる。彼女は最大限の努力で躰を離すと、ハルスの襟元の十字勲章を外して、ケースに大切にしまいこんだ。
 背中越しに欲動の気配を感じながら、自分でも信じていないコトバを口にする。
「よろしいのですか、旦那様。とても、お疲れなのでは−」
 そんな事をいいながらも、彼女はエプロンを脱いで手にとったまま、ワンピースのボタンとホックを外していく。丈の長いそれを脱ぎ終えると、これまでプリーツの深い襞に隠れて見えなかったモノが、ほっそりとした足の間に露になった。
 バジリスク特有の、緑色の尻尾。
 細く引き締まった腰の下からのびた、幼児の腕ほどもあるしっぽの先が、抑えきれなくなった欲情そのままに、くねくねと空中に模様を描いている。
 取り去ったエプロンとワンピースを綺麗にたたみ、下着をするすると床に落とす。その動作の途中で、ハルスは彼女を後ろから強く抱いた。
「はふぅぅ」
 両腕でつよく抱きしめられて、マーシェンカは胸の奥から長い息を吐いた。回された腕にそっと手をそえる。細い手首を取り巻いたうろこの環が、瑪瑙細工の腕輪のような光の綾を紡いだ。
「いま帰ったぞ、マーシェンカ」
 そのコトバにしっぽがまた、意志とは無関係にくねりだす。小ぶりなおっぱいから細く引き締まった腰のくびれに腕をまわし、ハルスは全身でマーシェンカを包み込んだ。ハルスの大きな掌の中で、乳首が堅さを増してくる。
 背中ではすっかり逞しくなったハルスの剣が、熱く脈打っていた。

 甘やかな香りが、部屋の中に漂っている。ランプの灯はとうに消えていて、窓から覗き込むような月のアカリが、寝台を蒼く照らし出していた。
(−よかった。新しい傷はなさそう…)
 胸筋に、そして腹筋に盛り上がった古い傷の一つ一つに触れながら、マーシェンカは安堵の吐息をもらした。戦場で執られた応急処置の手際か、その幾つかは土竜が造ったような畝を刻んでいたが、かえってそれが屈強な肉体に荒々しい印象を添えている。
「検分は終わったか、マーシェンカ」
 そのコトバで、はっと指の動きが止まる。彼女は恥ずかしそうに手を引っ込めると、黙ったまま、ハルスの全身に絡みついた。
「心配することはない。おまえの許可も無いままに、死ぬことはありえない」
「約束いただけますか?」
 ひと睨みで生けるもの全てを石に変える琥珀の瞳も、いまは緩く潤んで、甘い光を放っている。
「わたしの知らないところで亡くなったりしたら、承知しませんよ?」
 それ以外のコトバも無く、彼女はハルスの上に覆い被さった。




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