この季節、夜明けはいつも気のふれたような虹色だ。
 南方に深く広がる森林から湧きあがる、濃密な朝のもやが、壮麗な二重の弓を初夏の大気のなかに持ち上げてくる。
 そのときには−それはほんの僅かな時間だったが−まるで天球一面が七色に輝くのだ。
(はぁ〜。もう、朝かぁ)
 書棚の脇の窓をおおきくあけると、物憂い朝の気配とともに、かすかなざわめきが部屋の中に入り込んでくる。視線をおとすと、そこには明け方の雨に少し濡れた石畳を踏んで出勤してくる、アカデミーのお偉方たちの姿があった。声高な議論の切れ端が風にのって、ここまで届いてくるようだ。
(お年よりは、朝から元気ねえ)
 そう思ったとたん、なんだかおかしさがこみ上げてくる。それなら三日連続で、この狭い研究室に閉じこもってるわたしは、いったいどんな風に見られてるのだろう。
 自分でもちょっと呆れた含み笑いをもらしたとき、扉が開く音とともに、背中に高い声が覆い被さってきた。
「おはようっ、エンゲ!」
 驚いて振り返ると、黒い長い髪が視界に飛び込んでくる。甘い香りで、誰なのかはすぐにわかった。
「おはよう、アカリ…早いのねー、今朝は」
「お褒めに預かりまして恐縮です、エンゲリカ・シュルツェン教授殿」
 急に背筋を伸ばして、アカリは恭しくお辞儀をしてみせた。深い緑の瞳に黒い睫が、すっと被さる。
「いま、おもての掲示板でみたよ。正教授就任、おめでとう。−シュルツェン教授かー。なんか、かっこいい感じだね!」
 細い、しかし鍛えられたバネのような腕が絡みついてくる。肩の長さに切り揃えられたエンゲの金髪が、少年のようにふっくらとしたアカリの頬をくすぐった。
「史上最年少の正教授だって?ほんと、すごいね」
 その賛辞に胸の奥のほうが、苦痛に軋んだ。それに気づかれないように、まわされた暖かい腕をやんわりと解きながら
「えへへ。それほどでも、あるかな」
といってみる。
 事実この年齢で、ハイランディ学術協会の正会員に−そして同時に、アカデミーの正教授に−着任した前例は、記録にない。
 そして、幻獣の変成と雌雄分化に対する生化学的なアプローチである「存在因子仮説」は、幻獣生態学会でも高く評価された学説となったのだ。
「ね、お祝いは何がいい?その、あまり高くないものでね」
 アカリはそう言い放って、あははっと目を細めた。深く憂い夜の色をした、腰までの長い髪がさわさわと揺れる。いつもは硬く編み上げたうえに帽子の中に押し込まれている髪が、気晴らしをするように軽く広がって、甘くさそった。
「それにしても、あいかわらずちらかってるねえ、正教授殿」
 アカリは狭い部屋の中を、手を開いてくるりと見渡した。
(う、ほんと、ちらかってるー、っていうか)
 すごい。ちらかりすぎだ。
 壁際には、天井まで届く背の高い書架がいくつも据え付けられてはいるが、その収容能力の限界をこえてからもうずいぶん経つようだ。棚をあふれだした書物が、あらゆる平面を埋め尽くすように、山脈を築いている。そのひときわ高い山頂の向こうから、笛のような音とともに細い蒸気が吹き上がるのがみえた。
「あれ、お湯が沸いてるんじゃないの?」
「ああっ、大変!」
 エンゲは器用に書物をよけながら、さかんにアピールするケトルに駆け寄った。
「あーあ、沸きすぎちゃったよ、もう」
 かちゃかちゃと、お茶をいれる物音が聞こえてくる。アカリが、ベッド代わりのソファにどうにかスペースを作ろうと奮闘していると、
「あ、ごめんねー。どこか、そのあたりに座ってて」
 声だけが聞こえてくる。
 もう。そんな場所、どこにもないよ。
 それでもどうにか、一人が座れるだけのスペースができたころ、トレイにのせたお茶が運ばれてきた。
「器用ねぇ。そこはしょっちゅう雪崩がおきるのに」
 ソーサーに乗ったカップを手渡しながら、呑気にわらう。はああ〜〜っと、アカリは膝の間に頭をおとした。
「あのねエンゲ、ベッドがこの状態で、いつもどこで寝てるわけ?」
「ここよ」そういいながら、窓に向かって置かれた仕事机の、簡素な椅子に座る。
「で、寝る時はこう」
「あー、実演はいいから」
 机に突っ伏そうとするエンゲを、慌ててとめる。不器用な彼女のことだ、どうせ肘か何かで、お茶碗をひっくり返すに決まっているのだ。それに、白い顔を鮮やかに彩る、目の下の隈。これでは目を瞑ったとたんに、すぐに沈没してしまう事だろう…
「それで、そんな状態で今日は、大丈夫なの?」
 恐る恐る、たずねてみる。これからすぐに、北方の丘陵地帯に埋もれていると考えられている前世代の遺構の調査に向かう予定だ。途中には険しい岩場があり、幻獣たちが多数出没する、潜在危険度の高い行程でもある。日が暮れるまでには、目的地にたどり着きたかった。そのために特別、朝早くからやってきたのだが…もしかして…
 上目遣いで自分を見つめるエンゲの視線に、早くも今日二度目の深い溜息。
 やっぱり、忘れていたのだ。このオンナは。朝早くから意気込んで駆けつけてきた自分が一瞬、ものすごく間抜けに思える。だが…
「ごめんねぇ、アカリ。すぐに支度するから、ね」
 怒らないで、と哀願するような表情を見ていると、腹を立てる気もなくなってくる。
 まあ、今回が初めてでもないし。ここはお茶を楽しもうか。エンゲがいれるお茶はいつでも美味しいし、砂糖を少し控えたマドレーヌの味もまた、格別なのだ。
 アカリは、お茶をその香りとともに一口すると、再構築された書物の山を倒壊させないように注意しながらソファでくつろぐ、という難事業にとりかかった。


「いいことって、あるのね!」
 真新しい革冑がこすれあう、きゅきゅっという音を楽しみながら、アカリは声を弾ませた。歩くたびにリズミカルに揺れるこれも新品の、少し変わった形のクィーバーには、アカデミーの紋章−交叉した柏とオリーブの葉環ーが焼き込まれている。
「ちょうどね、新しい革冑がほしかったの」でもね、と続ける。「アカデミーの雇われ狩人じゃあ、お給料もしれてるもんね。うれしいよ、エンゲ」
「いいって。いつも面倒かけてる、お詫びとお礼…」
「それじゃあ、わたしもお祝い、奮発しないとねー」
 そういって軽々と先をいくアカリに、エンゲはついていくのがやっとだった。荷物の分担はアカリの方が多いはずなのに…じぶんより小柄で、ずっと華奢な彼女についていくのは、本当に大変な事だった。
「ねー、アカリぃ…もうちょっと、ゆっくり…」
 エンゲは荷物を肩に担ぎなおしながら、前をいく小さな背中に情けない声をかけた。そして自分でも、本当に情けない気持ちになってくる。
 彼女は狩人を生業にしているわけだし、小柄で引き締まった躰を有効に駆動し、完全に制御する訓練を、受けてもいることだろう。もとより、”どんくさい狩人”がアカデミーと正式な契約を締結できるわけもない。何よりも彼らのギルドが、面子にかけてそんな事を許さないだろう。
 メンバーの能力を常に一定以上に維持するために、狩人のギルドでは定期的に研修さえ行なっている。とかく奔放の代表格のようにいわれる狩人たちだったが、腕前を磨いて市場価値を高めるという意味では、なかなか堅実なのだ。
 そういえば。今回の研修、来週の初めからって、いってたっけ。
 ということは、また二、三週間ほどは、会えなくなってしまう。半年に一回のこの期間は、エンゲにとって背中が捩れるような、辛い時間だった。
 もう今のままで十分本物の、一人前の狩人じゃない、アカリ…。そう思い始めると、遠くで囀る鳥の声さえわずらわしくなってくる。こんなに、怖いほどに誰かを好きになったことは、いままで一度もなかった。
「荷物、少し持とうか?なんか、いつもよりも大きいみたいだよ」
 そんな彼女の想いには全然気付かずに、アカリは快活にコトバをかけた。
 それは確かに大きな荷物だった。背負っているのは、遺構を発掘するための道具に、幻獣を遠ざけるための装備の数々、それに小さなスケッチブックが一冊。しかしアカリのほうといえば、野営用の設備一式に水食料を担いでいて、どう割り引いて考えても、彼女のほうが大変に決まっている。
 エンゲは頸をぶんぶんとよこに振ると、埃に少し汚れた顔を拭った。白金の髪が張り付いた額から、汗がまた一筋、伝いおちる。
 アカリのほうは、足の下で崩れる石の感触を、むしろ楽しんでいた。革冑の下で、シャツはべったりと汗で体に張り付いていたが、それも気にならない。躰の内ではアドレナリンが明るく燃えて、不純物をことごとく焼き尽くすようだ。ぴったりと体に合ったシャツの下では、鍛えられた腹筋が滑らかに駆られて、悪い足場にあって見事な動的安定性を保っている。
 華奢な背中で揺れる長い弓はまさに剛弓で、恐らく男でもこれを引ききることが出来る者は、稀れだろう。狩猟用にはいささか不向きのようだったが、アカリの細い腕は信じられないことに、この強靭な弓を軽々と引くことが出来た。ほかには武器らしいものの持ち合わせは全く無い。小振りのナイフが−彼女は”コクチ”と呼んでいた−腰のサックに収まっているくらいだ。
「ねー、前から、一度ききたかったんだけど」
 アカリの後に一生懸命ついていきながら、エンゲは息を弾ませていった。
「弓のほかに、何にも武器みたいなの、持ってないけど。本当に危ないことになったら、どうするの?」
「逃げるにきまってるよ」
 あまりに予想通りの答えに、咄嗟に返事ができない。
「逃げるって。大丈夫なの、それで?」
「わたし、本気で走ったらケンタウロスとも勝負できるもん」
 それは、試したの?と突っ込みを入れようと思ったが、やめにする。それに、ひょっとしてアカリなら−とろい自分とちがって−たとえ相手が精気に飢え、欲望に餓えたケンタウロスであっても、無事に振り切れるような気がした。

 岩場を貫いた細く長い路を登りきると、やっと藍色の空を仰ぐ余裕が出来た。大きく開けた視界の向こうに、目的の丘陵地帯が連なっているのがみえる。目の前に続く最後の峠を越えれば、ようやく許可が下りた発掘の目的地”五月前夜の丘”まで、もうほんの一息だった。
 それにしても、先の戦役以来だ。
 通商の妨げになるという議会の非難もはねのけて、この地域一帯にはこれまで、国防軍による厳しい通行制限が布かれていた。最近になってようやく、事実上の通商封鎖は解除されたものの、この峠道を民間人が越えて行くのは戦役からこちら、殆ど初めての事だった。
 そして長い時を経て、久しぶりに目にするこの峠道の美しさは、記憶を超えていた。まるでココロを断ち割って開かれるような、なんという冷たさと豊かさだろうか…。かつて恩師とともにこの峠道を越えて、幻獣の生態を探る現地調査に出かけてきたのが、遠い遠い昔のことのように思い出された。
 今もその時もこの峠は、初夏でも雪を蓄える氷河の槍峰を遥かに仰ぎ、下方には薄霧に包まれて広がる針葉樹の森を一望に出来る、共和国の辺境に有って屈指の景観だった。
 かつてはその美しさにふさわしい、最も優雅で風靡な名で呼ばれた地だったが、今では誰もが別の−この場所にとって更に似つかわしい名を使うようになっていた。
「肉挽き峠」。
 かつて戦われた王冠戦役の最も凄惨な激戦の一つが、この峠を巡る戦いだった。共和国の首都までまっすぐに続くこの道を奪い合って、短期間のうちに、彼我あわせて三千名の命が失われた。戦いの中でヒトと幻獣たちが掴みあい、殺し合い、そして混ざり合った死体が、雪崩をうつように峠道を流れて落ちていったという。川底の泥炭ゆえにいつもは黒い水を運ぶシュルベイ川も、その時には不吉な夕焼けのように、ながいこと、いつまでも、赤黒くそまったという…。
 肉挽き峠へとさしかかる、だらだらと長く続く道の途中で、二人は小休止をとった。後方をふり返れば、今朝出発したファル=カルクの町並みが、薄靄の間にかすんで見えた。オメガの形に大きく流れる黒い水の川に抱かれて、家々と街路が寄り添い、市街の突端には流れを分ける舟の舳先のように、アカデミーの尖塔が風の中に屹立している。かつては十を超える研究施設が華麗に立ち並んだアカデミーの広大な敷地にも、いまでは黒い水の流れに沿って、幾つかの研究棟や実験塔が残っているだけだった。
 シュルベイ川は小さな三日月湖を幾つも周囲にはべらせ、ゆるやかに蛇行しながら薄墨のような水を運び、遥かな南方に消えていく。その遠い川べりには、花崗岩を切り出すための採掘拠点が点在していた。そしてときおり、光があたる角度の加減で、荒々しく鋭い掘削面の眩しい照り返しがここまで届いてきて、なにかの怪しい合図のように見えた。
 峠の道が本格的に開放されてふたたび通商路が通れば、花崗岩や鉄鉱石などの戦略物資による交易も、すぐに復活することだろう。そうすれば、人の行き交いも増え、そして情報の往来も増える。周辺の国々の研究者を受け入れて、アカデミーが活発な議論に溢れていたかつての日々が戻ってくるのも、そんなに遠いことではないだろう。
 彼女は立ち上がってお尻の塵を払うと、峠を越えて隣国の方にむかって流れていく雲を追って顔をあげた。

「はあ〜、やっとついた」
 両膝にどっと手をおとして、エンゲはふうっと息をついた。首筋を風が撫でて通って、過負荷に火照った身体をゆうるりと冷やしてくれる。
 木立から抜けた風景は、一変して明るく開けた草原だった。緩やかな曲線を描く丘陵が連なる、風の渡りも見えるような涼しい風景が大きく広がっている。
 その丘は”五月前夜の丘”と呼ばれている、この辺りの丘陵地帯の中心だった。毎年五月最初の日の前日には−霊的な高まりが極限に達するその日に−この丘では、”五月の王”と名づけられた等身大の人形が焼かれ、豊穣と繁栄が祈念される。丘というには少しばかり急な勾配をみせるその麓には、今年の”五月の王”を空に揚げた痕跡がまだ残っていた。ということは、今年もまた王は、丘の頂きに凱旋することを許されなかったのだ。エンゲにとっては、それはとても好都合なことだった。
 これまで十数回に渡った、発掘の許可申請。ようやく許可が下りそうになった今年も、託宣が下されて、藁人形が丘に帰還するような事になったら、全ての前提が撤回されていた事だろう。今年が最初で、そして最後の機会かもしれないのだ。
 一面の草地を登りきった丘の頂には、天空も貫くかと思える長大な三枚の刃物を備えた塔がたった一機、風に向かってその顔をむけていた。伝承は、かつては同じような風車が美しい列を成して、丘の稜線を越えて彼方まで続いていたと伝えている。しかしいまは、どこにもその痕跡を求めることはできなかった。
「はあー、涼しいね〜、アカリ」
 振り返ると、彼女はもうさっさと革冑を脱ぎ始めているところだった。
「生き返ったよ。もう、あせびっしょり」
 アカリは革冑を取去ると、身軽になった躰に手早く弓矢を装備しなおした。
「さ、エンゲ。せっかくとれた発掘許可だしね。はやく仕事、はじめよう!」
 そのとおりだった。この丘での今回の滞留許可は、二昼夜しか取れていない。遺構の発掘も大規模なものは、予想通り許可されなかった。祭祀庁からは、丘の頂き付近のごく限られた一帯を調べる許可を取り付けたに過ぎなかったが、この神聖な場所を掘り返すことが出来るということだけでも、全く奇跡的なことだったのだ。
 荷物の中から機器を下ろすと、エンゲは遺構が埋没していると思しき付近を、慎重に測量し始めた。




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