第二章 国境


 




 ベルナール王国の北部にある、要塞ウォーレム。
 崖を削って造られた要塞はベルナール王国建国時に建てられたもので、今まで難攻不落を
誇っている。先のケルヴィオン民主統合国による侵攻にも耐え抜けたのは、地下にまで伸びる
施設を持っているからだ。そこに貯め込まれた物資により、五年以上の籠城戦に耐えることが
出来、蜘蛛の巣のように伸びた地下通路は要塞周辺の街や村に通じており、奇襲や部隊の脱出に
大いに活用可能だった。
 ネイトは、そのウォーレム要塞で働いている魔術師の一人である。
 
 カリカリカリカリカリ……。
 ウォーレム要塞の地下にある研究室で机に座り、集中してペンを動かしている、小柄な若い魔術師。
 それが、ネイトだった。
 ただでさえ痩せた体は地下の研究所暮らしで青白くなっており、灰色の髪と相まって、
彼の姿を幽鬼のように見せていた。四角い眼鏡の奥に光る瞳だけが、妙に印象的だ。
 今、ネイトが書いているのは、ウォーレム周辺に現れた幻獣についての研究論文。
 彼の仕事は幻獣を研究して生態を解明することで、新しい発見をする度に徹夜することを
厭わなかった。
 カリカリカリカリカリ……。
 今は、変成という現象について論文を書いているところなのだが。
 ポリポリポリポリポリ……。
 カリカリカリカリカリ……。
 ポリポリポリポリポリ……。
 カリカリカリカリカリ……。
 誰かが、彼の机の横の丸椅子に座って、延々と豆菓子を食べている。
 ポリポリポリポリポリ……。
 カリカリカリカリカリ……。
 ポリポリポリポリポリ……。
 カリカリカリカリカリ……。
 無視して、ネイトはペンを動かすことに集中していたのだが。
 ポリポリポリポリポリ……。
 カリカリカリカリカリ……。
 ポリポリポリポリポリ……。
 カリカリカリカリカリ……。
 ついに、根負けした。
 
 ペンを置き、ネイトは横の丸椅子に座っている人物に向かって怒鳴る。
「ルカっ! いい加減、僕の部屋で豆菓子を食べるのは止めてくれないかっ!」
 名前を呼ばれて、袋に詰まった豆菓子に手を伸ばそうとした少女の手が止まった。
 そして、大きな黒い瞳でネイトの顔を見つめて、嬉しそうに喋りだす。
「やっと無視するのやめてくれたね。ねえ、いつも、こんなところに閉じこもっていたら、
病気になっちゃうよ。外に出よう。こんな日は、きっと大きな鹿が捕れるよ」       
 ネイトよりは年下であろう少女ルカは、彼とは対照的に日に焼けた健康的な肌をしていた。
 格好も彼のような厚ぼったい貫頭衣姿ではなく、狩人が着る動きやすい服装である。
 露出度の高い短めのズボンから、ルカの太股が飛び出しているのだが、ネイトは目もくれない。
「あのな……僕は忙しいんだ。おまえも狩人だったら、僕なんかにチョッカイをかけていないで、
どこかに狩りに出かけたらどうだ?」
「だって、一人で行っても面白くないもん」
 ルカはそう言って、机の上に身を乗り出してきた。
「だからさ、ネイト。狩りに行こう。二人で行けば、たくさん獲物が捕れるよ。そうしたら、
ヒルダおばさんも喜んでくれるよ」
 机の上に手と膝をついて、強引に誘ってくるルカ。
「僕じゃなくて、ラッドと行けばいいだろう」
 ルカの短い前髪が顔に当たって、ネイトは顔をしかめながら言った。
「え〜? 嫌だよ。兄貴ったら、狩りの最中でも女を捜しているんだよ。最近は幻獣の牝でも
いいって言い始めて。あたしが止めたら、「ネイトの研究に協力するためだ」なんて言うんだもの。
ほんっとうに馬鹿兄貴だよ」
「それは……馬鹿だね、確かに」
 ネイトの研究対象は幻獣であり、その研究成果は辺境の小国であるベルナール王国においては
随一のものとして生かされている。だが、彼は他の多くの幻獣学者がしているような幻獣の性の
探求は行っていない。生態のみを研究しているのだ。
「だからさ、ネイト。狩りに行こう。二人で大きな鹿を捕まえに行こう」
「明日じゃ駄目なのか?」
 ネイトが譲歩したが、ルカは彼の顔の目の前で首を大きく横に振った。
「昨日もそう言ったじゃない。行こうよ、ネイト」
「……わかった。いいよ、付き合うよ。それでいいんだろう?」
「やったあ! ネイト! 大好きっ!」
 机の上で手と膝をついていたルカが、椅子に座っていたネイトの首に抱きついてくる。
「うわっ! 馬鹿!」
 そのまま椅子ごと後ろにひっくり返りそうになって、ネイトは机の端をつかむ。
 貫頭衣の厚ぼったい衣越しに、ルカの年齢にそぐわない豊かに育った胸の感触を感じて、
さすがにネイトの頬が赤らんだ。
「それじゃ、早く行こうよ。この前、鹿の群れを住んでいる場所を見つけたんだ」
「わかった、わかったよ。行くから、離してくれ」
 首に巻き付いたルカの腕を振りほどいて、ネイトは立ち上がる。
 貫頭衣の厚ぼったい衣が興奮した証拠を覆い隠してくれているのが、とてもありがたかった。
 
 
 ウォーレム要塞は、荒野の崖を削って造られた要塞である。
「うわー。風が気持ちいいね」
 弓を肩に掛け、子供のようにはしゃいでいるルカ。その横には風になびく貫頭衣を着て、
埃っぽい風に顔をしかめているネイトがいる。
 二人が立っている場所は、ウォーレム要塞の三合目にある見張り台。
 蟻の巣のように掘られたトンネルを通り抜けて出てきた先にある見張り台は、二人も立つと
本当に場所がなくなる。時たま、蹴落とされた小石がパラパラと音を立てながら、遙か下にある
枯れた川へと落ちていった。
 剛の者でも恐れを抱くような高所であるが、生まれた時からウォーレム要塞に住んでいる
ネイトとルカにとっては、なんでもないことのようだ。
 ルカは狭い見張り台の上で楽しそうに跳ね回り、ネイトは強い風に吹かれて流れていく雲を
見上げている。
「それじゃ、降りようよ」
 そう言うと、ルカは垂直に近いほど切り立った崖の中腹にある見張り台から飛び降りた。
普段、平地に住んでいる者からすれば、投身自殺にしか見えないような危険な行為。
 だが、ルカは崖の壁のわずかな起伏を踏んで、跳ね落ちながら、下へと降りていく。
 その様子は、まるで崖で遊ぶ鹿のようで、とても優雅であった。
 ルカが跳ね落ちて行く様子を見下ろしながら、ネイトも続く。
 彼女と同じように軽く跳んだのだが、その距離はずっと長く、崖の壁から遠く離れている。
「……」
 真っ直ぐに下へと落ちていくネイトが、何かつぶやいている。
 そして、そのつぶやきが終わった途端、流れる空気に押されてめくれ上がっていた貫頭衣の端が、
めくれ上がるのを止め、静かに下へと下がっていった。
 ネイトがつぶやいていたのは、自由落下の速度を変える呪文だった。
 乾燥した岩肌を蹴り、崖を跳ねながら降りていくルカ。
 その目の前を、ゆっくりとネイトが降りていく。
 
 すでに枯れた川の上に着陸していたネイトは、ルカが降りてくるのを待っていた。
「ずるいよ。ネイトも一緒に、足で降りてくればいいのに」
 負けたのがくやしいのか、ルカは枯れ川の上に飛び降りると、真っ先にネイトに文句を言った。
「便利なものは使うさ。くやしかったら、ルカも魔法を覚えればいいだろう」
 ルカの小麦色の肌には汗がにじんでいるが、ただ飛び降りただけのネイトは涼しい顔をしている。
「嫌だよ、そんなの。あたし、勉強嫌いだもの」
 そう言って、ルカは枯れた川の底の砂地を蹴りながら走っていく。
 その後に、痩せた体のネイトが意外な健脚で続いた。

 ウォーレム要塞が位置するところは荒野であるが、川は流れており、森も点在している。
 あちこちに散らばっている森には生き物が生活しており、ルカのような狩人が獲物を探すことが
できる。昔は危険な大型幻獣もいたが、王であるクローヴィス3世が北方の遊牧民族から借りてきた
精強な騎馬隊がほとんど駆逐してしまったので、最近はルカやネイトのように少人数で行動しても
安全である。
「あっ! 見て、見て。騎馬隊が通るよ!」
 走りながら、ルカがウォーレム要塞の反対側を指差した。
 荒野の赤い土を蹴って、北方の軍馬たちが駆けてくる。
「また、新しい騎馬隊が来るのか……あっ!」
 ルカの後を追って走っているネイトも叫び声を上げた。
 軍馬の群れの先頭を走る、一際大きな馬。その上で馬を走らせている戦士もまた、人一倍
大きかった。
 戦士が着ているのは、真っ黒な鎧兜。手に持っているのは、ネイトの身長を遙かに超えていそうな
大薙刀。荒野の上を輝く太陽の光を反射して、銀色の刃が獰猛に光っている。
 バカッ、バカッ、バカッ!
 巨大な蹄が土を蹴る音が、地面に響いていた。
「お〜い、お〜い!」
 無邪気に手を振るルカ。騎馬隊の中の何人かが、親しげに手を振り返していた。
 何人かは、ウォーレム要塞に来たことがある連中だ。
 だが、先頭の戦士は無言で、なにも応えずに、まっすぐに要塞に向かって馬を走らせていく。
 荒野を疾駆する、黒い戦士と軍馬。
 その姿が見えなくなるまで、ルカは手を振り続けていた。
 
「すごかったね、さっきの騎馬隊。特に、先頭を走っていた戦士。あんなに大きな体でさ。
きっと、すごく強いんだよ」
 大きく手を広げながら子供のように喜んで話し続けるルカに、ネイトは小さくうなずいた。
「幻獣はいなくなったのに、彼らがやって来たということは……やはり、ケルヴィオンが
また攻めてくるんだろうか?」
 ウォーレム要塞の近く、国境付近にあるケルヴィオン民主統合国の町に、反乱を起こした
兵士たちが集められているという情報は、ネイトも知っていた。
 反乱は死罪でもって罰せられるものであるから、首都から遠く離れた場所で行われるのは
当然である。しかし、緊張感は持っておくべきだった。
「わかんない。城にいてもらうと困るから、追い出されたんじゃないの?」
 ルカの意見も有り得る話だった。
 北方の遊牧民族は自由奔放で、ベルナール王国の流儀に合わせるつもりがまるでない。
 ウォーレム要塞にも何人かの遊牧民族が駐留しているが、彼らの行動を問題視する者も
多い。特に、規律と秩序を重んじる神官たちが口うるさかった。
 城には、さらに厳しい目を持つ王族たちがいるから、彼らが南部から追い出されたという予測は、
あながち否定できないものがある。
「それよりさ、ネイト。狩りに集中しようよ。手ぶらで帰ったら、ヒルダおばさんに顔が
合わせられないよ」
 ネイトとルカの二人は、すでに森の中に入っていた。
 早くも鹿が歩いていた痕跡を探し出して、その通り道に罠を仕掛けている。
 一本のロープを結び合わせただけの簡素な造りだが、ロープには魔法がかけられており、
小型のものなら幻獣でも捕らえられる強力な罠だった。
 二人は茂みに隠れて、じっと鹿が通るのを待っている。
 この狩猟法は待つだけの忍耐力がいるものであるが、獲物が通ることがわかっていれば、
非常に成功率が高い。幻獣を専門に捕らえる狩人も、好んで使っている方法だ。
「前に、ラッドが鹿を捕るつもりで、マンティコアの足を引っかけたことがあったな」
「そう、そう。あの馬鹿兄貴ったら。狩りの最中に寝ちゃったんだよ。で、気配を感じて、
寝ぼけ眼であわてて引っ張ったら、それが大きな牡のマンティコアでさ。要塞まで
逃げ込んだ時の、あの情けない顔ったら……あたしは妹として情けないよ」
 自分の兄の醜態を思い出して、ルカは顔をしかめていた。
 ルカの兄ラッドは、妹と同じ狩人で、腕前はウォーレム要塞でも五本の指に入る。
 弓から放つ矢の正確さ、罠の巧妙な仕掛け方、度胸の良さ。
 ウォーレム一番の狩人であった師匠から習った技術は本物で、大陸全土から名手が集まる
ドラギオン帝国への留学の経験まである。
 ただし、一つ大きな問題があった。
「馬鹿だからなあ。仕方がない」
 幼なじみのネイトの言うとおり、とんでもない粗忽者なのである。
 猛獣を捕らえに行ったのに矢筒に矢を入れ忘れている、公衆浴場の女風呂をのぞいて捕まる、
捕まえた幻獣の色仕掛けに騙されて殺されそうになる……。
 その度にフォローをするのは、ネイトの役目だった。
「ネイトがいなかったら、とっくに死んでいるよ。あの馬鹿兄貴」
 呆れたように溜め息をつくルカの肩を、そっとネイトが押した。
「……来たみたいだ」
 ピクっ!
 ルカの耳が震え、ロープを持っている右手が握り締められる。
 ネイトの言うとおり、牡鹿が獣道を歩いてきていた。
 トッ、トッ、トッ……。
 細い足の先にある四つの蹄が土を踏んで、リズムを刻んでいる。
 ルカの大きな黒い瞳に、狩人の特有の鋭い眼光が宿った。
 ガサっ、ガサガサっ。
 牡鹿の頭に生える長い角が木々の枝葉に当たる音が、大きくなっていく。
「てえいっ!」
 掛け声と共に、ルカの右手が大きくロープを引いた。
 輪になったロープの先が牡鹿の後ろ足に絡みつき、締め付けながら、牡鹿を地面へと引き倒す。
「ネイト! 仕留めてっ!」
「わかった! ……」
 つぶやき、いや、呪文の詠唱。ネイトが空に向かって大きく手を掲げると、光で出来た矢が
数本、ネイトの手を取り巻くようにして空中に浮かび始めた。
「行けっ!」
 ネイトの号令と共に、光で出来た矢は弦で弾かれたように飛び出し、起き上がろうと
蹄を地面にかけていた牡鹿の体に、次々と突き刺さっていく。
 唱えられたのは、『祈念の矢』と呼ばれる攻撃用の呪文である。
 精神力を矢の形状に具現化させて敵に向かって放つという、魔術師にとっては初歩的な呪文。
 それでも鹿を倒すには充分な殺傷力を持っている。
 ビクンっ!
 急所を貫かれた牡鹿は大きく震え、悲しそうに空を見上げた後、そのまま昇天した。
「よしっ! やったよ、ネイト! 今夜は御馳走だよ!」
 倒れた鹿を見て、嬉しそうに大きく手を広げて飛び跳ねるルカ。
 ネイトは大きく息をついて、どうやって牡鹿を運ぼうか考えていた。

 結局、倒した牡鹿の足を縛って、その間に枝を通し、肩にかついで帰ることになった。
「やったねー。ヒルダおばさん、きっと褒めてくれるよ」
「要塞まで無事に運べたら、だけどな……」
 二人で倒したのは若い牡鹿だったが、それでも大人一人分くらいの体重はある。
 普段から森の中を駆け回っているルカは平気な顔で枝をかついで前を進んでいるが、
その後ろで運動不足のネイトは青い顔をしていた。
「だらしないなあ。得意の呪文で軽くしたりできないの?」
「魔法といっても万能じゃない。物体の重さを変えるのは難しいんだ」
 よくわからない、という感じでルカは首を傾げると、気軽に前に進んでいく。
「あっ、あんまり速く歩くな。転んでしまうだろ」
「でも、肉をぶらさげたままで歩くと、いつ幻獣が来るかわからないよ。速めに森から
出た方がいいってば」
 ルカの言うことは正論である。
 ネイトは文句を言うのをあきらめて、肩にのしかかる枝の重さに耐えることにした。
 
 ぜえ、ぜえ、ぜえ……。
 荒い息をネイトが吐いている。
「一応、軍人でしょ。頑張らないと」
 前を歩くルカの顔にも汗はにじんでいるが、ネイトのように足をよろめかせていたりしていない。
 ルカの言うとおり、ネイトは戦時では軍役に就くことになっている。
 これはウォーレム要塞に住んでいる男子全員に課せられた責務で、当たり前のことだった。
 それでもネイトは魔術師であるから、実際に剣を持って敵とぶつかりあったりすることは
ない。そう思って、基礎体力の訓練をさぼっていたのが悪かったらしい。
「どうする? ここで休む? 大きな幻獣はもういないだろうから、大丈夫だと思うよ」
「いや、大丈夫……まだまだぁ〜」
 負けず嫌いのネイトは強がりを言っているが、腰は泳いでおり、足はふらつき放しだ。
「休もうよ。あたしも疲れちゃったし」
 ネイトを気づかったルカが、先に腰を下ろした。倒れるようにして、ネイトもそれに続く。
「ふぅ。暑いね。要塞まで運ぶのは大変そう」
 土の上に腰を下ろしたルカは、あぐらをかいて、着ている服の胸元をパタパタと仰いだ。
 小麦色に焼けた谷間が見えそうになったので、ネイトはあわてて目をそらす。
 ルカはその動作に気付いていたが、別に気にした様子もなく、そのまま胸元を仰ぎ続けた。
 目をそらして、必死に別の方向を見るネイト。見てもいいのにな、と思いながら、様子を
うかがっているルカ。その奇妙な均衡は、あることを切っ掛けに崩れたのである。

 ふぅ……くぁ……。
 
 何かを堪えるような、切ない女性の声。
 それを聞いて、胸元を仰いでいたルカの手が止まった。
「えっ? 誰か、怪我をしているのかな?」
「怪我って……ルカは、そこで待っていろ。僕が見てくるから」
 まだ力の入らない脚を押さえながら、ネイトは立ち上がる。
「駄目だよ。ネイト、まだ疲れているじゃない。あたしが見てくるよ」
「そっちこそ駄目だ。いいから待っていろ。動くんじゃないぞ」
 ネイトに念を押されて、ルカは不満そうな顔をしながらも、上げかけていた腰を地面に
降ろした。ネイトの判断は正しいことが多いと知っているのだ。
「何かあったら、大声を出すから。いいね。そこで待っているんだ」
 再び念を押して、ネイトは茂みの中へと消えていく。
(何で、ついていっちゃいけないんだろう)
 そう思いながら、ルカは素直に、ネイトが戻るのを待っていた。
 
 
 森の中に住む幻獣のうち、人間に非常に近い外見や生活形態、文化を持った種族がいる。
 そういった種族の一つが、エルフである。
 彼らは森の中に住む痩せた人間型幻獣で、高い知能を持ち、みだりに人間を襲ったりすることは
しない。長く横に伸びた耳を持つ彼らは天性の狩人であり、魔法もよく使う。
 人間の狩人たちはエルフと共生することを望みこそすれ、敵対しようとは思わない。
 プライドが高い彼らを敵に回す恐ろしさをよく知っているからだ。
 そんな種族、エルフと一緒に、狩人ラッドは森の中にいた。

「ふぅ……ふぁ……」
 長く尖った耳を揺らしながら、白い肌の女エルフが身悶えている。
 ラッドは、彼女の服の胸元に忍び込ませた指を動かしながら、鼻息を荒くしていた。
 太い木の幹に背中を預けたまま、女エルフが片膝を上げ、ラッドが愛撫しやすいように股を開く。
 素早く、ラッドは空いた片方の手を、彼女の急所に滑り込ませた。
 じゃり。
 意外に多い陰毛が、指に擦られて音を立てる。
 そのまま指で探っていくと、指先に柔らかい固まりが当たった。
「くふぅ……」
 ラッドの指が敏感なピンク色の固まりを探り当てると、女エルフは吐息を漏らしながら、
栗毛色の長い髪を揺らす。股間の固まりが熱くいきどおるのを感じて、ラッドはさらに勢いづく。
「俺の名前はラッド。あんたの名前は何て言うんだ?」
「エミリア……」
 女エルフ、エミリアの白い肌に赤味が差している。恥ずかしがっているのか、顔を背けて、
赤くなった頬を見せているのが印象的だった。
 ラッドが彼女に出会ったのは、狩りをしている最中のこと。
 足跡を追い続けて、ようやく見つけた牡鹿。さっそく仕留めようと、弓に矢をつがえようとした時、
すぐ横で同じように弓矢の準備をしていたのがエミリアだった。
 ぶつかる視線。
 どちらが先に牡鹿を射るのか、激しい口論が始まった。その声を聞きつけて、牡鹿が逃げてしまった
のも気付かずに。そして、そのことで再び口論になった。
 だが、何がどうなったのか、いつの間にか、ラッドはエミリアの細い体を大木の幹に押しつけて、
彼女の最も敏感なところを探ってしまっている。どうして、そうなったのかは、ラッドも覚えていない。
(もしかすると、俺はエルフ女にはモテるのかもしれない)
 そんな都合のいいことを考えながら、ラッドはキスをしようとしたのだが。
 ラッドの黒い瞳の前に、彼女の白い手が立ち塞がった。
「……んっ。駄目よ」
 エミリアが手を自分の唇の前に持っていって、ラッドの唇が近寄るのを防いでいる。
「おいおい、なんだよ。お触りはOKで、キスは駄目なのかよ」
 すげなくキスを拒絶されたラッドは、冗談めかして文句を言った。
(イカル・ドラギオで買った浮かれ女の中にも、こういう子はいたなあ)
 大陸最大最強の国家、ドラギオン帝国。その首都であるイカル・ドラギオで、ラッドは一年間、
狩人ギルドで技術を磨いた経験がある。その時に何度も通った浮かれ宿。そこで働いている
春を売る女の中に、一人だけキスを嫌がる女がいた。
 不浄の門に舌を這わすことも厭わないのに、唇を合わせるという児戯は頑なに断る。
(所帯でも持っていたのかもしれないなあ)
 業を深める場所でも貞操を守りたかったのだろうか。
 そんなことを思い出しつつ、ラッドはズボンを降ろし、大木に寄りかかったエミリアに挑みかかろう
とした。指先には、量は少ないが湿り気はついている。充分に挿入できそうだった。
 やや小振りな男根を露出し、ラッドは腰を突き出して、その先をエミリアの秘所にあてがう。
「駄目。ここまでよ」 
 だが、エミリアが急に腰をずらしてしまったので、小槍の穂先は彼女の太股にずれて当たってしまった。
「ここまできて、そりゃないだろう」
 ベルナール王国ではあまり聞かれないドラギオン帝国のスラングを喋りながら、ラッドは
エミリオの細く尖った目をにらみつける。だが、彼女はラッドの胸を手で押すと、木の幹から離れて、
逃げてしまった。
「牡鹿が捕まえられなかったから、せめて精気だけでもと思ったけど。あなたって、とても不味そう」
「……ファック!! てめえ、味見する前からケチつけるような奴があるかっ!」
 ズボンを降ろした情けない格好のままで、ラッドは下品に中指を立て、エミリアを罵倒する。
それはやはり、ベルナール王国では珍しい挑発のジェスチャーだった。
 興奮して、唾を飛ばしながら文句を言うラッドの姿を、エミリアは軽蔑しきった目で眺めている。
「舌をつけなくても、充分にわかるわ。どこかに行って頂戴。牡鹿を逃がしてしまったことは
許してあげるから」
「なんだと、この野郎っ! 逃がしたのは、てめえじゃねえか……あれ?」
 そして、薄い唇から出る冷たい言葉。怒りが頂点に達したラッドは、エミリアの胸ぐらをつかもうと
手を伸ばしたのだが。
 動かない。
 まるで釘か何かで打ち付けられたように、ラッドの手は宙に差し伸べられたまま、動かなくなって
しまっていた。そして、脚も、首も、体のどこもかしこも、彫像のように固まって動けない。
「なっ、なにしやがった……」
「なにも。魔法で金縛りにしただけよ。無様な格好ね。粗末なものを出したままで」
 かろうじて動く口で喋るラッドの質問に、エミリアはあくまで冷たい答えを返す。その目は、
明らかにラッドをあざ笑っていた。
「ケダモノめ……」
「文句を言っても無駄よ。そのまま、森の住人たちの餌食になってしまいなさい。じゃあね」
 崩れた服を整え、長く伸びた髪を手ですいて正すと、エミリアは背を向けて去っていく。
 その身のこなしは優美で、最後までラッドを侮辱しているように見えた。
「ファーック! この馬鹿女ぁぁああああ!」
 ラッドの悔しげな罵声が、空しく木々の葉を揺らしていた。
 
「ううっ、畜生。丸出しのままで死ぬなんて恥ずかしすぎる。本当なら、俺は五人くらいの美女の
上で腹上死するはずなのに……」
 幻獣も潜んでいる森の中。そこで、まったく身動きできなくなっているという危機的状況にも
かかわらず、ラッドはまだ自分に都合のいいことを言っていた。
 ガサガサガサ……。
 急に、近くの茂みが動き、音を立てる。
「わっ? 待て、待て、待て! 俺は喰っても美味しくないぞ。筋ばっているし、毒もあるんだ。
だから、近寄って来るんじゃねえっ!」
 クセの強いラッドの髪の毛が、彼の動揺を表すように激しく揺れた。
「……なにをやっているんだ、おまえ」
 それに応えたのは、茂みから出てきて、あきれ顔で幼なじみの醜態を見ているネイトだったのである。
 
 魔術師であるネイトにとって、エミリアがラッドに掛けた金縛りの呪文を解くのは簡単なことだった。
「助かったぜ……畜生、あのエルフ女。次に出会ったら、縄で縛り付けて酷い目に遭わせてやる」
 金縛りを解いてもらったラッドはズボンを上げながら、エミリアが消えた茂みの先を悔しそうに見ている。
「前も、同じようなことを言っていたよな」
 ネイトの言うとおり、以前にも、ラッドは幻獣の色仕掛けに引っかかって殺されそうになったことが
あった。あの時も、運良く他の人間が通りかかったので助かっている。
「しょうがねえだろ、俺だって男なんだからさぁ」
 全く反省が見られない顔で、ラッドはネイトに文句を言う。
「通りがかったのが僕じゃなくて、ルカだったら、そのまま捨てていかれているだろうな」
「うっ……妹の話はすんなよ」
 ネイトの手厳しい意見に、ラッドは思わず言葉に詰まった。
「女の姿をしていても油断しないことだ。幻獣に殺された狩人なんて珍しくないからな」
「あー、もう。わかったよ。二度としないって」
 ラッドがふてくされながらも反省をしたようなので、ネイトは話題を変えることにしたようだ。
「それよりも。ルカが牡鹿を捕まえたんだ。運ぶのを手伝ってくれ」
「なんだよ。珍しく先を越されちまったか」
 減らず口を叩きながらもラッドは慣れた足取りで、ネイトの前を進んでいく。足跡を見れば、
ネイトがどこから来たのかわかるようだ。この辺りは、一人前の狩人らしい。
「あいつ、後先を考えないで獲物を捕まえるからなあ。苦労しただろう、ネイト?」
「ああ。兄妹そろって、そういうところはよく似ているよ」
 先程まで肩にのしかかっていた枝の重さを思い出して、ネイトは苦笑した。
 
 
「ヒルダおばさーん! 大きな獲物が捕れたよーっ!」
 崖を削って造られた、ウォーレム要塞。
 その城門に当たる大きな洞穴の前で、ルカは元気よく手を振って大声を上げた。
「大きな声で人の名前を呼ぶんじゃないよ、ルカ。恥ずかしいだろう」
 名前を呼ばれて出てきたのは、長い髪を頭の上でくくって白い布で覆っている女性だった。
年齢は四十に近いようだが、日頃の労働で鍛えられた体は豊満でありながらも緩んではいなくて、
まだ女性としての魅力を感じさせた。腰に巻いた大きなエプロンが、よく似合っている。
 彼女の名前はヒルダ。
 ウォーレム要塞で働いている料理女で、若くして夫と子供を失っている。
 そのせいか、ルカやラッド、ネイトの面倒を、子供の頃からよく見てくれた。
「ど、どうでもいいから、早く人を呼んでくれ……」
「ど、同感だ……」
 ルカの後ろでは、青い顔でラッドとネイトが牡鹿をぶら下げた枝を肩に担いでいる。
 ヒルダはそれに気付いて、あわてて三人のところに駆け寄ってきた。
「あら、あら。大きな牡鹿だねえ。解体してから運べばよかったのに。どうして、丸で持って
来たんだい?」
「だって、ヒルダおばさんにいいところ見せたかったから。あたしが捕まえたんだよ」
 誇らしそうに、ルカは大きく育った胸を反らす。
「あんたたちも大変だったねえ」
 ヒルダに同情されて、ラッドとネイトの男二人は力無くうなずいた。
「さっそく、ご馳走を造ってやるよ。今日は、新しく要塞に赴任した人たちもいるからね」
「遊牧民の戦士でしょ? さっき、要塞に向かって馬で駆けていくのを見かけたんだ」
「そう、そう。隊長さんが直接、うちにやって来たみたいでさ。今、みんなで噂をしているよ」
 女たち二人は、賑やかに話しながら要塞の中に入っていく。
「人……呼んでくれねえみたいだな」
「……運ぶか」
 その後ろで、男二人は疲れた顔を見合わせていた。
 
 
「戦士ロルフ。王の命令により、ウォーレム要塞に赴任することになった」
 それだけ言って、後は押し黙っている大男の戦士を見ながら、要塞の最高責任者である
ザントレイ子爵は溜め息をついた。
「なるほど。しかし、危険な大型幻獣は君の部下たちの活躍によって、我々の生活圏を
脅かすことはなくなったはずなのだが」
 座っている姿は、目の前の四人掛けソファーを一人で覆い尽くさんばかりだった。貴族の
自分と謁見しているというのに、鎧姿のまま。その着ている鎧と言えば、金属板をそのまま
組み合わせたような、雑な造りの黒い鎧。鴉の羽のように黒い髪は伸ばし放題で、おまけに
口には牙にしか見えないほど発達した、大きな犬歯が光っていた。
「王の命令だ。細かいことは伝令でも出して聞けばいい」
「むぅ……」
 ザントレイ子爵は切りそろえた顎髭を撫でながら、ロルフの扱いをどうするか考えていた。
 正直、北方の遊牧民族は精強で勇敢であり、戦力としては有り難い。
 しかし、今のウォーレム要塞はケルヴィオン民主統合国との国境を守っているだけで、
戦う相手はいないのだ。
 平時において、不作法な遊牧民族を要塞の中に置いておくのは好ましいとは思えなかった。
 自分が座っているソファーのクッションに爪をかけて、ザントレイ子爵は思い悩んだ。
 だが、悩んでいても結論は出そうになかったので、とりあえずロルフが懐柔可能な人物か
どうか、探りを入れてみることにしたようだ。
「まあ、赴任の件はよい。王命であるのだからな。それよりも、ベルナール城の様子は
どうであった。王は御健在であったか?」
「王妃の尻に敷かれている」
 真顔で即答するロルフ。
 冗談を言ったのか?
 そう思って、ザントレイ子爵は目を丸くして、ロルフの細い目を見つめたが、表情は
慇懃無礼そのものであった。
「ユリアーネ姫はどうだ?」
「家庭教師のメイベル司祭を困らせていた。嫁の貰い手に困るだろう」
 思わず、ザントレイ子爵は吹き出しそうになった。
「きっ、騎士団長のハインツは?」
「妻のフランチスカと幸せそうだ。それこそ、暑苦しいぐらいに」
「ぶわっはっはっはっ!」
 大笑いがザントレイ子爵の職務室を包んだ。
 顎髭が震え、大きく開けられた口からは笑い声が大きく響いている。
 しばらくして、ようやく笑いが止まったのか、ザントレイ子爵は目に溜まった涙を拭きながら、
先程の仏頂面からは考えられないような笑顔でロルフの顔を見つめ返した。
「……貴殿。言葉には気をつけよ。王族や神官に目をつけられるぞ」
「そうだな。おかげで、城から追い出された」
 ロルフの表情が、初めて崩れて笑い顔になった。
「くっ、くくく……そうか。追い出されたか。それならば、いた仕方ないな」
 ザントレイ子爵は、この口の悪い戦士が気に入ってしまったようだった。
「歓迎しよう、戦士ロルフ。頭の固い連中など放っておけ。ウォーレム要塞は王国の最前線。
仕事は腐るほどある」
「望むところだ」
 ザントレイ子爵は棚から酒瓶を取り出すと、ロルフについて来るように手でうながした。
「酒か?」
「そうだ。酒だ。私が初めて戦陣に立った時、戦友と酌み交わした酒と同じ銘柄だよ。
ロルフ、今日は飲もうぞ。我らは戦友になるのだ」
「ありがたく頂戴する」
 酒瓶をかかえ、宴会場に急ぐザントレイ子爵。
 その背中を見送りながら、ロルフは彼がクローヴィス3世やハインツと同じ、まっとうな
武人であったことに感謝をしていた。
(俺のせいで、真面目に働いている部下にまで迷惑をかけられないからな)
 傭兵とはいえ、部下を持つ身の気苦労は多い。   


次の話へ

トップへ