「幻獣屋」プロローグ

 ハイランディ共和国は、山と森に恵まれた民主国家だった。

 小さな領土ながら、自然資源に裏打ちされた穏和な文化と技術は、他国からも高く評価され、21世紀末の幻獣再出現からも、比較的安定した時代を過ごしてきた国の一つである。

 もちろん他国と同じように、幻獣達の力で“機械文明”は衰退したものの、自然との一体感を大切にする国民性もあって、23世紀の今も国としての形態を保持していた。

 多くの政変や動乱があったものの、それは権力や文明の崩壊に伴って起きた他国の混乱状態に比べれば、奇跡に近いほど軽いものだといえるだろう。

 しかし、やはり幻獣達の進出は、人々の生活にも精神にも、大きな影を落とすことになり、この国にも新しい職業が顔を出し始める。

 襲いかかる幻獣達と戦いながら、国家から個人までの色々な仕事を請け負う『戦士』や、幻獣捕獲のスペシャリスト『狩人』…そして、幻獣達が“人の精気”を欲することを逆手に取り、人間達の“相手”をさせる『幻獣屋』。

 それぞれを営む者達は、いつしかギルドを結成し、その体制も、ほぼ完成していた。

 

 アムリティアは、そんな『幻獣屋』を営む夫婦の間に生まれた。

 といっても、父ソルマの『幻獣屋』は、普通の人々が思い浮かべるモノとは、かなり違っていたようだ。(アムリティアがそのことに気づいたのは、15歳の時に留学した隣国ドラギオン帝国でのことだったらしいが…)

 

 この世界の幻獣達は“生きる”ために人間を襲い、その“精気”を奪う。

 そうしなくては半実半霊の彼女達は、この次元へのアンカーを失ってしまうのだ。

 普通『幻獣屋』では、商売として“精気”を幻獣に与えることと引き換えに、かなりアコギな方法で、幻獣達を支配している。

 だが、あくまでソルマは、幻獣に必要な“精気”を、平和的に得るための方策として店を構え、料金は決めずに、訪れた人のカンパという形でお金をもらって運営していた。

 事実、2年前彼が亡くなった時には、店の幻獣達が心底悲しみ、弔問に訪れた同業者達も、その光景に大いに戸惑ったらしい。

 

 母を幼い時に亡くしていたアムリティアは、父の遺志をついで、好きな学問をしながら、店を続けていた。

 父の代からの常連さんと、ギルドや知り合いの助けでどうにかこうにか時を過ごしていたものの、異変はある日突然やって来た。

 1年前の、"王冠戦役"である!

 隣国のドラギオン王が、幻獣達の軍団を従えてこの国に侵攻してきた歴史的事件だ。

 

 ほんの数日とは言うものの、敵の軍が近づくにつれて幻獣達の態度が変わりだし、最後には正気を無くしたように店を飛び出し、二度と帰ってくることはなかったのだ…

 噂では、幻獣達はドラギオンの幻獣軍に結集した後、ほどなく王の魔力が消えるとともに霧散し、野生での生活を送ることになったという…

 

 時が経ち…殆ど休業状態の『幻獣屋 バティー』で、アムリティアは今後のことをぼんやりと考えていた。

 部屋の中は、書物でちらかっている。

 前は父ソルマの書斎だったが、アムリティアが自分の部屋にしてからは、足の踏み場もないほどだ。

 窓の外には、午後のけだるい雨…

 

 「この部屋と同じね…私が受け継ぐと、すぐにどうしようもなくなっちゃうんだわ…」

 

 ため息と一緒に、そんな思いが頭の中をゆっくりと回っている…

 父が貯えてくれていたお金も、そう遠からず底をつく…といって、自分に『幻獣屋』経営の手腕がないことは、火を見るよりも明らかだった。

 父の遺志を継いで、この店を続けていきたい気持ちと、漠然とした未来への不安の間で揺れ動く心…

 …と、その時、しとしとと降る雨を眺める彼女の耳に、何かが聞こえた!

 

玄関の扉に、鈍く、重いモノがぶつかるような音…

 

 廊下を突っ切って玄関で聞き耳を立ててみる。

 ……何の音もしない……

 おそるおそる扉を開けてみると、そこには、扉ににもたれかかるようにして、かろうじて人間と判別できる、汚れた若者が横たわっていた。

 どう見てもお客さんではなさそうだ。…いや、それどころか意識がない!

 雨で体が冷えて、このまま放っておいたら危険だ!

 部屋を暖め、ズタ袋のような服をひっぺがして毛布でくるむ。

 お風呂が沸くまでのしばらくの間、埃まみれの顔を蒸しタオルで拭いてみた。

 青ざめてはいるものの、生気はある。

 まだ少し幼さが残っているけれど、なかなか端正な顔立ちだ。

 

 その時、アムリティアの心の片隅に、何かがチカッときらめいたような気がした。

 それが何を意味するのか…それとも、ただの錯覚だったのか…

 

 そうこうするうちに、若者の表情に血の気が戻ってくる!

 これで命を落とすことはないだろう。

 胸に広がる安堵感の中で、アムリティアの頭脳はどんどん回転を早めていた…

 「まず、お腹いっぱい食べさせてあげなきゃ!…そして、それから……☆☆」

  …これが70日間にわたる、『幻獣屋 バティー』と、ある行き倒れの青年…そして、アムリティア自身の人生の、再生の物語の始まりだった。